6033 悲劇の水戸天狗党 平井修一

イデオロギーに取りつかれるとろくでもないことになる。現実を「見ない」「見られない」「見たくない」から、現実から完璧に遊離した「夢想」が信者のすべてを牛耳ってしまうのだ。文字通りの自縄自縛。
共産主義や自虐史観もそうだが、幕末の「尊皇攘夷」も多くの悲劇を生んだ。その際たるものが「天狗党の乱」だろう。
<1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに計352名が斬首され、他は遠島、追放などの処分が科された>(ウィキ)
酸鼻をきわめた結末だった。
なぜこんな悲劇になったのか。「攘夷の魁(さきがけ)となる」という、一途な思い込みからである。
冷静に彼我を比べれば、とてもじゃないが開国して富国強兵を図るしかないのだが、尊皇攘夷の総卸元、水戸斉昭膝下の水戸藩では、多くの藩士が狂気の攘夷熱に取りつかれていた。理論的にそれを体系化したのが藤田東湖。
カエルの子はカエルで、息子の藤田小四郎(23)は煮え切らぬ幕府に業を煮やし、自ら攘夷の魁となるため挙兵を決意、北関東各地を遊説して同志を募る。長いが以下、ウィキから引用する。
<元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志と遂に挙兵、各地から続々と浪士、町民、農民らが集結し、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1400人という大規模な集団に膨れ上がった。
幕府は天狗党追討令を出して諸藩に出兵を命じた。水戸藩も追討軍を結成し、元治元年7月7日(1864年8月8日)に諸藩連合軍と天狗党との戦闘が始まった。
武田耕雲斎が一行の総大将となり、幕軍の追っ手から逃れつつ、京都に上り一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。
11月1日(新暦11月29日)に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。
元治元年12月11日(1865年1月8日)、天狗党一行は遂に最期の地、越前新保に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、京都から来た幕府軍を慶喜が率いていることを知り、また慶喜に差し出した嘆願書の受け取りも拒否されて、自分達の志が潰えたことを悟った。
これ以上の進軍は無理と判断した武田耕雲斎ら天狗党幹部は降伏を申し入れ、元治元年12月17日(1865年1月14日)、天狗党は加賀藩に投降して武装解除し、乱は完全に鎮圧された>
そして徳川斉昭の息子の慶喜により厳しく残酷に断罪されてしまった。
攘夷は朝廷も幕府も公約しているが、幕府のやり方に逆らうものは容赦なく叩き潰すという姿勢を鮮明にしたのは、西日本で長州の反逆にてこずっていたこともある。それにしてもあまりにもむごい仕打ちである。
釈明の機会も辞世の句も許されない。次から次へと首を切られていく。「短時間に前代未聞の大量の処刑であった。殺戮と見て過たない」と大仏次郎も書いている(天皇の世紀)。
<薩摩の大久保一蔵は、幕府が降伏してきた者に惨酷無比の処刑を行ったのを知ったときに、日記に「これをもって幕府滅亡の表れ」と書いた>(同)
冷静に時代を見るというのは凡人にはなかなかできないし、左翼更正派の小生が思うに、時の風や潮の流れに乗って同志とともに口をそろえて騒ぐのは痛快である。これは多分、民衆、群集というものの本質で、民度が高い国民でもアジテーターの振る旗に容易になびくのだろう。
よほど軸足を固めておかないと、流されて、馬鹿を見ることになりかねない。民主党を支持した人々もやがてはツケを払うのだろう。
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