6047 李承晩ラインを想起 渡部亮次郎

<一方的に設定された排他的経済水域での拿捕 古沢襄
北朝鮮警備艇による韓国漁船の拿捕は、国際的な関心を呼んでいる。英ロイター通信は拿捕海域は北朝鮮によって一方的に設定された排他的経済水域(EEZ)だと指摘し、中国の新華社は、拿捕された漁船には韓国人4人と中国人3人が乗船していた、と伝えている。
今後も拿捕行為が続けば、北朝鮮に対する国際的な非難が高まろう。>
2010.08.09 Monday name : kajikablog
一方的に設定された排他的経済水域(EEZ)というなら、嘗て韓国が獨島(日本の漢字では「独島」)と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するために設定した「李承晩ライン)を思い出す。
これは、1952(昭和27年)1月18日、韓国大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。
表向きは海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したもの。これに違反したとされた漁船(主として日本国籍)は韓国側による臨検・拿捕の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった(第一大邦丸事件など)。
当時、私は秋田で高校生だったが、連日の報道に憤怒したものだ。
日本側は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議したが聞き入れられず、ライン廃止までの13年間に、日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。
韓国は第2次世界大戦の講和条約であるサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)に勝戦国として参加することを希望していたが、連合国が韓国臨時政府を承認した事実がなく、イギリスやアメリカによって拒否された。
また、対馬、波浪島、竹島を自国領土であると主張していたが、対馬が日本領であることは明白であったし、波浪島は実在しなかった。
韓国は日本国との平和条約での日本の放棄領土に波浪島、竹島を追加すること及びマッカーサー・ラインを継続することを要望したが、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」で、韓国の要求を拒否した。
「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約は調印され、翌1952年4月28日に条約が発効される手筈となっていた。
韓国政府は、サンフランシスコ平和条約の発効によりマッカーサーラインの消滅と日本国の主権回復がなされる3ヶ月前の1952年1月18日に、突如として李承晩ラインの宣言を行った。
冷戦初期の中、日本国と韓国は共にアメリカの庇護下で反共主義(自由主義)を旨とする西側諸国に属したが、李承晩は1910年の日韓併合以来一貫した反日・民族独立運動家であり、1948年に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日外交を行った。
李承晩ライン発表の直後、1952年2月から日本の保守政権と韓国の李承晩政権は国交樹立を目指した交渉を開始したが、両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。
両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じたが、李承晩ライン自体は存続させ、1960年の李承晩失脚後もこの状態が続いた。
問題は解決に長い年月を要した。その原因は、日韓両国に正式な国交がなかったこと、 国交正常化交渉は賠償請求権を巡り紛糾し、遅々として進まなかったこと、アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入してこなかったため である。そうして徒に時間が流れていった。
1963年、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化を進めることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進することを考えた。
そのためには資本と技術を必要とした。しかし、大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこから調達するのかが悩みの種であった。
朴大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結を急いだ。
一方、日本国政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。
竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで基本条約の締結がなしえると判断したところで漁業協定を締結し、1965年に李承晩ラインは廃止された。
しかし、問題解決にあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。
また、韓国政府は日本人抑留者の返還と引き換えに、日本政府が摘発した韓国人密入国者の強制送還を拒否するとともに日本国内に解放するよう要求した。
池田勇人内閣にあってこの問題の処理に当ったのは無任所大臣の河野一郎氏。私はNHKで河野番の記者だったのでその取材に当った。後に首相になる代議士の宇野宗佑氏が韓国側との連絡役としてソウル訪問を繰り返した。
当時、NHKで外務省キャップは後に会長になる島桂次氏。責任上彼と私はしばしば連絡を取りあう間柄になり、先輩記者として数々のことを学んだ。
かくて日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が締結された直後、河野氏が急死し、条約の批准国会は安保国会以来初の乱闘国会となり、私はその取材にも当った。だから今、韓国への謝罪談話問題で、菅内閣を誤った方向に主導する仙谷官房長官の行為は歴史の流れにに反するものだと思う。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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