6068 河北新報社協賛の錦秋湖マラソン裏話 古沢襄

最近は朝四時には目を覚ます。まだ暗いが二階の書斎の窓を開け放つと冷気が入ってくる。階段を下りて一階で静岡からとり寄せている玉露の粉茶をカップに一杯・・・そう、寿司屋で出てくる大きな茶碗になみなみと注いでくれるお茶である。
それを持って、また書斎に戻ってくる。それからリニューアルされた杜父魚文庫のトップ・ページをしばらく眺める。トップ・ページは記事ではない。大きな写真が四枚、順を追って出てくる。
http://www.kajika.net/
お盆になった。父方の岩手と母方の長野に帰るべき故郷があるが、高速道路の渋滞や新幹線の混雑ぶりは苦手なので、この期間は自宅でのんびりと過ごすことにしている。
四枚の写真に戻る。二枚の景色は岩手県西和賀町の錦秋湖で次女が撮った写真。晩秋の錦秋湖周辺の風情がよく撮れている。杜父魚(カジカ)がいる和賀川が錦秋湖の人工ダムに注ぎ込み、ここから下流に流れて、北上市で北上川と合流する。雪解け時期には滔々たる流れになって、川辺に立つと圧倒されてしまう。
ことしは、5月30日の日曜日に錦秋湖マラソンがあった。新緑の映える湖畔周辺を2327人が走った。前日には「湖水まつり」の花火大会も開かれた。西和賀町に来ると顔なじみばかりだから、居心地がすこぶるいい。
数年前のことだが、花火大会が開かれるまで合併まえの湯田町の大野屋旅館で仲間と酒盛りとなった。かなり酩酊した頃、隣に座っていた高橋一雄・沢内村長が「忘れていた。湖水まつりの実行委員会が湯田町の役場で開かれている。ジョーさん行くべ」ときた。
私が行くべき筋合いがない実行委員会なのだが、そこは酔っぱらい同士。二階の会合場所に行くと「沢内村長席」がある。酩酊している高橋村長は「ジョーさん、そこに座ってケロ」と言って、自分は後ろの席に座って居眠りを始めた。
隣に座っている人物をみたら、河北新報の常務・事業局長。先方は「共同通信社の常務理事だった古沢さんではないですか」とびっくりした表情。私が退職後、沢内村の村長になっていたと勘違いしたらしい。
錦秋湖マラソンは仙台の河北新報が協賛して作られた。30年前のことだが、湯田町長と沢内村長が協賛してくれる新聞社を探して苦労している。沢内村の初代村長だった為田文太郎さんの孫が河北新報社の編集局長になっているらしいと分かって、二人が遙々仙台にやってきた。
局長さんは為田大五郎氏。私の父とは従兄弟同士、息子は朝日新聞のOB・英一郎さん。大五郎さんは陳情を聞き終えると「郷里のためです。河北新報が引き受けましょう」と二つ返事で協賛社になる約束をしてくれた。東北ブロック紙の河北新報が協賛社になった影響は大きい。錦秋湖マラソンには東北各地から参加者が来るようになった。
当の河北新報常務氏も初めて聞く話だから驚いていた。30年も前のことだから、この話を知る者は西和賀町にもいなくなった。
写真の三枚目は「一点山」の大額が出てくる。聡漆(うるし)に金張りした見事な山額で、江戸時代の後期に古沢屋が菩提寺の玉泉寺に寄進した。古沢屋がもっとも栄えた頃で、山額には家紋の「蔦紋」が六っ個も散りばめられている。
玉泉寺の本堂に上がるところに掲げられた「一点山」の山額は、二百年以上の風雪に耐えてきた。玉泉寺の正式な名前は「一点山玉泉寺」。開祖は花巻の昌歓寺の第十代和尚だった渓巌光浦禅師だが、弟子に寺を譲って、布教の新天地として沢内太田を選んだという。(沢内歳代記)
<<渓巌和尚老齢タリトモ身仏心ニシテ衆生済度ノ念止ミ難ク稗貫郡ヲ出発、山道ヨロシカラズ二三日ヲ費ス時、老師汗出喉乾キタルニ水ナク困リタルニ一点清キ水流レ出タルヲ見、渇ヲ求メテ同所ニ一草庵ヲムスベリト。一点山ト号セルハ其ノ因ニヨルト云ウ。>>
一点山玉泉寺の開山は寛永二年(1625)だから三百八十五年の歳月を刻んでいる。渓巌光浦大和尚が入寂したのは正保四年(1647)。十一年後に湯本温泉が発見されている。
四枚目は古沢元・真喜夫婦作家の文学碑。平成十年(1998)に募金の浄財六百万円で建てられた。文学碑には「杜父魚はカジカのことだ 石の下や岩の合間に ひとりじっと孤独さうにしていて けっして水面に浮いてこない そのくせ 非常に諦めのよい脆い魚で 針一本のヤスで刺されても 刺されれば それで もうおしまい 私は子供時分 田舎にいた頃 よくこの魚を穫りに 川へ出かけた」と古沢元の詩文が自筆で刻まれている。
隣には「幻の碧き湖を求めて 涯しない人の世の 砂漠をさまよいし わが旅路の 漸く終わりに 近づきたるか 六十路の半ばもすぎたるに われ湖にいまだ巡りあえず されど いつの日か そを見ることのあらんかと されど あヽ あくがれの碧き湖は彼方」の真喜の詩文が刻まれた。
夫婦作家の旧友だった写真家の土門拳さんが、昭和十一年(1936)に撮影した古沢元と真喜のポートレートが文学碑に特殊仕様で嵌め込まれている。十二年の歳月が経ったが、文字も写真も建立当時と変わらない。
この四枚の写真を見ているだけで、父祖伝来の西和賀町に帰っている気がする。
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