日本の敗色が濃くなった昭和二十年の初夏、東北の弘前連隊の将兵たちが博多港から最後の輸送船で朝鮮を経由して満州に渡った。遠ざかる祖国の山々をみながら「ああ、堂々の輸送船、さらば祖国よ 栄えあれ」と合唱が起こったという。
この中にいた父の古沢元から弘前から母宛の一通のハガキが来ている。
<<陸軍記念日(三月十日)を控えて、すでに渡航の用意が成る。弘前の風は寒く、冷たし。何年ぶりに、このような風の音を聞く。身体が温地に慣れて、寒さに耐える力の衰えを知る。しかし元気なり。自分は隊の最年長(三十九歳)なり。一番困るのは話相手のなきことなり。>>
最年長だったことから分隊長になったが、博多に向かう車中で、またハガキを書いた。
<<弘前にいると思っているだろうが、神戸を通過したところだ。神戸の爆撃状況は驚いた。土地が狭いだけによけいに目立ったといえるが、東京以上といえる。今夜にどこまで行けるか、分からないが、人まかせの旅を続けている。>>
<<夜中に中国筋に細雨があった。関門を経て九州に夜明けとともに渡る。あと二、三時間で博多に着く。本土の旅もここで終わる。>>
いずれも軍用列車の中で書き、人目をしのんで投函したのであろう。
渡満してからは、軍事郵便に点検済の判が押されてある。満州第590軍事郵便所気付、満州第2636部隊とあるが、任地は分からない。敗戦後、国境に近いハイラルの守備についていたことが分かった。
<<皆んな変わりないか。襄のこの頃の様子はどういう風か。少しは中学生らしくなったか。内地は益々容易ならぬ状態になっていると想像している。こちらは元気だから心配ない。今は自分のことよりもむしろ人のこと、お前たちことを案じる気持ちの方が強い。ついでの時に戸川貞雄氏に便りを出しておいてくれ。>>
敗戦時の関東軍の配置はハイラルに第四軍独立混成第八十旅団(旅団長 野村少将)がいた。満州第2636部隊はその傘下の部隊であった。八月九日未明にソ連軍が一斉に侵攻を開始した。満州西部はマリノフスキー元帥麾下の第三戦線軍。重戦車を先頭にして怒濤のごとく国境を越えて侵攻してきている。
応戦した第四軍独立混成第八十旅団は防衛線を突破されて多くの戦死者が出ている。十日には大本営命令で朝鮮保衛が下達され、国境警備に当たっている関東軍に撤退命令が出された。しかし戦闘状態にある各部隊に撤退命令が徹底する筈がない。
一方、ソ連軍は各地で孤立した関東軍を尻目に、重戦車を先頭にして関東軍総司令部がある新京を目指して南下した。国境警備に当たった関東軍が多くの死傷者を出しているが、玉砕という悲劇に至らなかったのは、ソ連軍の作戦による面がある。
そして八月十五日の停戦命令。武装解除された満州第2636部隊は、シベリア鉄道の貨車でブリヤート共和国の捕虜収容所に送られている。シベリアの悲劇はここから始まった。
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6074 満州第2636部隊からの軍事郵便 古沢襄

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