文政五年 壬午(ミズノエウマ・・・1822年の記録)
【巣郷本の記録】
☆大日照り ☆百姓百五十人陳情 ☆徒党の頭牢屋へ ☆喜左エ門逃げ去る
☆新銭交換 ☆碧祥寺御堂建立
正月十四日立春。正月閏あり。彼岸は閏月(1月は2回あったので、2回目の1月)二十五日であった。二月二十八日春の土用入り。三月十二日八十八夜(立春から数えて88日目・種蒔き時期)であった。四月二十六日より田植えはじめ、五月初め頃には終わった。それより晴天が続いてこれまで経験したことのない大日照りとなった。多くの者は田の草取りをしようにもできないでしまった。
多くの田が乾燥し、干上がってしまったのは巣郷、湯田であった。小沢の水のありそうなところまで皆干上がってしまった。旱魃になったのだけれども、時々は少し雨が降ったので作柄は中作と予想された。
この年正月四日 沢内通りの百姓たちが願い事があると百五十人ばかり盛岡城下に向かった。山伏峠を越えて南畑まで行ったところ、雫石の御代官が南畑に来ていて百姓たちに言うには「その方たちの願いの内容は私が聞き、城下に取り次ぐので何なりと申してみよ」というので、願いの内容を申し上げた。百五十人の百姓たちは沢内に帰された。
その後、御代官寄木佐弥太はお役人を廻して調べさせた。湯田、新田には小田嶋平八、高橋八郎兵衛。上通りには高橋喜内、加藤清作をお廻しになった。一通りの吟味があったが再度の吟味があった。徒党の頭である新町の伝右エ門、白木野の磯右エ門には二月十二日城下より用事があるので来るようにという通知があった。二人は城下で吟味された上、牢屋に入れられた。
六月には伝右エ門は野田へ、磯右エ門は五戸に遠島(追放)になった。寄木佐弥太の代わりに新渡戸八郎、仲原仲右エ門の代わりに厨川伊右エ門が代官となった。御下役の高橋直右エ門、小田嶋喜兵衛が退任し、高橋八郎兵衛、小田嶋平八が下役に任命された。
九月十九日小田嶋半左エ門様が野々宿に来られ、喜左エ門という者に手錠を掛けるという。糺された内容は、鷲ノ巣山が許可なく他領と取引されている(「下巾本」には「鷲ノ巣川の境通りの春木を秘密に伐った」とある)ということは事実かどうか。またその先に立って取引きしたのは喜左エ門であるというのは事実かということであった。
喜左エ門はその通りであると言ったので、手錠は掛けられず、明日まで親類に預けられた。預けられている間に喜左エ門は行方知れずに逃げ去った。預かった親類はもちろんのこと、五人組合まで皆迷惑した。野々宿、巣郷は大騒動になった。
八九月より一貫(1.000文)を三貫づつ取り替える新銭が沢内に来た。この銭は商人は多く儲けた。次の年までさらに調整吟味されるということであったが、他領に越して行って商売する者が多かった。(「下巾本」には「鋳物で作った新しい銭は悪銭で大幅に出廻った。通用は禁止となった。」とある。事実としては通用し続けたと思われる。「巣郷本」の記録が客観的な姿をとらえていると思われる。碧祥寺御堂が建立された。
【下巾本の記録】
☆若殿様入部 ☆御代官排斥運動 ☆七月大雨
「巣郷本」と同じ内容については重複するので省略した。作柄は上作であった。年貢割合は文政四年の通りで、安永四年の元歩より一歩増しであった。御代官 仲原仲右エ門、新渡戸八郎兵衛。
三月若殿様が江戸(東京)から領地(岩手)に来られた(入部)ので、その費用として年俸百石(一石は10斗・150㎏)につき三両(1両は4.000文・約100.000円)を仰せつかった。
昨年(文政四年)の暮れ、仲原仲右エ門五ヵ年、沢内御代官として長く勤務するよう請願が出された。沢内の老名(おとな・肝入または肝入の補佐役)五人が隣の雫石代官所を通して願い出たが難しく聞き入れられなかった。
今年の正月初め頃、百人ばかり雫石代官所に行く途中、南畑で引き延ばしの話し合いがあって帰宅した。正月十三日過ぎ御代官寄木左弥太様は免職になり、代わりに新渡戸八郎が来られた。十二月下旬仲原仲右エ門様が代わり厨川伊右エ門が来られた。
五月は「やませ」の寒風が昼夜しきりに吹いた。五月二十五日より六月二十日頃まで雨が降らず日照りが続いた。七月十七日大雨降り、数多くの橋が流された。山室橋も欠け落ちた。
【白木野本の記録】
☆惣兵衛・長太郎・長之助許され帰宅
正月四日百姓達が訴訟騒ぎを起こした。始めは川舟村と太田村の百姓達であった。新町は吉右エ門、白木野は與三右エ門ばかりが川舟、太田の一同に加わり、南畑まで行き雫石御代官と南畑の肝入に会った。雫石の代官と南畑の肝入は皆さんの言うことは私達が取り次ぐので帰るようにということであった。訴えの趣旨を申し上げているうちに貝沢まできていた、沢内代官仲原仲右エ門様が追いつき、百姓達の願いを詳しく申し上げた。
結果、沢内代官寄木左弥太様はお役御免になり、知行も取り上げられた。二月七日、新町の吉右エ門、白木野の與三右エ門、湯田の喜左エ門、太田肝入六之助、川舟肝入多兵衛が城下盛岡に呼び出された。尋問され吉右エ門と與三右エ門の二人は牢屋に入れられた。他の者は居宅謹慎となった。
四月、文政元年(1818)の白木山入会事件で有罪になって追放されていた越中畑の惣兵衛、長太郎、長之助の三人は許されて帰宅した。四年間の刑期を終えたということと解される。
【草井沢本の記録】
十二月十五日、月蝕で皆欠けた。正月閏あり。この年田畑共に作物の出来はよかった。《「歴史年表」より・・・イギリス船浦賀に来航し、薪と水を要求。西国にコレラ流行。大蔵常永「農具便利論」を刊行。ギリシャ独立宣言。ブラジル独立。》
文政六年 癸未(ミズノトヒツジ・・・1823年の記録)
【巣郷本の記録】
☆悪貨の商売で処罰
十二月二十五日は正月節といって正月の事始めとしての準備をする日であった。煤払い、正月用の餅つきなどの準備をこの日から始めた。春の彼岸は二月二日であった。土用は三月十日。
八十八夜は三月二十四日。夏至から十一日目にあたる半夏(はんげ)は五月二十五日であった。六月十三日は夏の土用の入りであった。秋の彼岸は八月十七日であった。秋の土用は九月十六日。十二月十九日冬の土用であった。作物の出来具合はまずまずの出来であった。
二月二日、芦が沢の重兵衛と三之助の子供茂七、重吉の子供孫助の三人が新銭とはいえ悪貨を背負い秋田に商売に行き横手市の小松川で役人に捕り押さえられた。茂七と重兵衛は免れ逃げ帰った。孫助一人が捕り押さえられ、秋田城下久保田まで連行され、沢内太田の長兵衛と二人牢屋に入れられた。この新銭は悪貨のため秋田では通用せず、五月盛岡に付け届出があった。盛岡でも吟味され、盛岡の牢屋に入れられた。八月になって太田の長兵衛は野田へ、孫助は田名部丑滝に追放になった。御代官 新渡部八郎、栗谷川伊右エ門。
【下巾本の記録】
☆御上様より塩売り下げられる ☆冥加金という人頭税上納 ☆京都東本願寺焼失
作柄は中の上の出来であった。年貢の割合は去年と同じ割合であった。安永四年(1775)の元歩より一歩増しであった。他領から買い入れた米の値段は一升、1.5㎏が三十五六文。約900円ばかりであった。
五月より七月まで少しは雨が降ったが日照り続きで水周りの管理など苦労した。しかしながら、二百十日太陽暦の九月一日までに明るい稔りの色となった。日照りのため染めの原料となる葉藍の出来は散々であった。
百姓共へ御上様より塩を売り下げられた。来年申年の春分までに二十貫文、今年の分三十貫文、合わせて五十貫文、約125万円を支払うことになった。また、冥加金という名目の人別税を一人当たり十文四分、約260円を納めた。
十二月二十六日湯田郷の肝入、老名、五人組みの組頭へ、年貢その他納税の成績が良いというので酒、肴代として一貫文、約25.000円を御代官栗谷川伊右エ門様より頂戴した。十一月十五日午後六時、京都東本願寺御門跡焼失し大騒ぎとなったということである。
【白木野本の記録】
☆下役交代 ☆炭焼き許可証 ☆悪貨商売で捕まり追放
正月高橋直右エ門、小田嶋覚弥は下役を退任、代わって小田嶋平八、高橋八郎兵衛様の二人が下役となった。前の年、文政五年の事を記す。細内川のうち白木野沢より、白木野の茂七は他領へ炭を焼き売り出す許可証を得た。三ヵ年中に十貫文、約25万円の礼金として税を収め炭焼き後の山を畑にすることも許された。
湯田郷のうち鷲之巣山のほか数山の薪山があるので、御上が改めて吟味された。その結果不正が指摘され、山管理人の半内は新町代官所の公事宿に預けられた。この事件に関係したと思われる新町喜内様、定右エ門殿、権七殿は謹慎処分になった。その後、喜内様、定右エ門様には御上から隠居するよう申し渡された。権七殿は苗字帯刀を許された。
後鳥羽院の頃から許されてきた貨幣でこれまでなかった二歩金という貨幣が出始めた。一分銀貨もなくなった替りに新たに鋳造された銭が出て、当分は通用した。
文政四年巳年(1821)岩手県北の福岡通りで小判が鋳造され、悪貨が大幅に出回った。殿様は外聞を心配された。南部九兵衛様には江戸表において死去されたとのことである。
悪貨を商売にした者が数人いた。太田村の長兵衛は秋田の六郷で捕り押えられた。芦が沢の三之助の子供茂助は逃げ久右エ門の若者として住み着いた。細内の長助の子供の與兵衛、久四郎の子供孫助、花山万之助が秋田に行ったけれども、孫助と與兵衛ばかりが横手小松川の前坂で捕り押さえられ、秋田城下久保田まで連行され牢に入れられた。
八月雫石と秋田田沢の関所のある橋場に久保田の役人が罪人を見送りに来、盛岡からも役人と親類の顔見知りたちが引受人としてやって来て引き取り、盛岡の牢に入れた。孫助は下北半島の田名部安戸に追放。長兵衛は青森五戸に追放になった。與兵衛は許されて家に帰った。
【草井沢本の記録】
☆月帯蝕 ☆寺の屋根普請は秋に計画
六月一日 日蝕 一分にみたずに欠ける。十二月十六日月蝕のまま月が出る。この年田畑の作物の出来は例年並であった。
この春、大石にある北上煤孫の慶昌寺の分家寺の屋根普請は秋に計画された。来年の申年の春の計画には記載しないことになった。《「歴史年表」から・・・シーボルト、オランダ商館医として長崎出島に着任。アメリカ、モンロー主義宣言=大統領モンローが表明した外交原則。ヨーロッパ諸国が西半球に新たに植民地を持ち込むこと。古い政治体制を持ち込むことに反対。ヨーロッパ諸国による西半球独立国への圧迫・干渉
はアメリカに対する圧迫・干渉とみなす。アメリカはヨーロッパの問題に関与しない等。》
文政七年 甲申(キノエサル・・・1824年の記録)
【巣郷本の記録】
☆大旱魃
正月七日立春。八月閏あり。春の彼岸は二月十七日であった。土用は三月十八日。秋の彼岸は八月二十八日であった。夏は旱魃のため被害を受ける。実地検査のため高橋求馬様が沢内中お廻りになった。八月末頃には小田嶋平八様が実地検査され沢内中の年貢米を三十五駄、1駄は7斗であるから245斗、重さにすると3tと675㎏割引きされた。御代官 新渡戸八郎代わり高田等、栗谷川伊右エ門。
【下巾本の記録】
☆大日照りとなる ☆台風襲う ☆塩口銭納める ☆納税奨励金出る
八月閏あり。大日照りで作柄は中作。課税できない程であったが、去年と同じ課税割合安永四年(1775)の元歩より一歩増しとなった。
五月二十七日より六月二十三日まで雨は一切降らなかった。田植え始めた間もなく大大日照りとなった。一昨年より三年続きの日照りのため、耕作できない田も所々に出た。また、ようやく耕作して見たものの、田の草が日枯れして止むを得ず作付けできない田もあった。実地検査をして報告書を書き上げた。総収穫高は七十石、10.5トンであった。それに対する年貢米を二十駄、2.1トン割引きとなった。
七月十九日台風と思われる大風が東から吹いた。作物は皆吹き倒された。粟や稗の穂は風で千切り飛ばされた。御代官新渡戸八郎、栗谷川伊右エ門、書記役は久保伊平治であった。他領地から買い入れた米の値段は一駄、七斗・105㎏につき二貫八九百文から三貫まであった。現在の価格では7万円から75.000円であったということになる。
塩口銭という塩購入にかかわる税として一人に付き十文余り、約250円余りを納めた。一家族の構成員は平均五六人と思われるので、一戸あたりでは1.500円ほどになる。この税は直接城下に納められたか、代官所とまりになったかは不明である。
沢内五カ村は代官所役屋に米や金銭の税を完納した。川舟村が一番であったので酒、肴代として一貫文、25.000円を栗谷川伊右エ門から頂戴することになった。次に二番目に完納したのは湯田村であったので五百文、12.500円を下さることになった。十二月二十八日の会合で川舟湯田の二人の肝入が頂戴した。
【白木野本の記録】
☆贋金づくりで牢屋入り
十月新町の定之進と大野の吉五郎が贋金を造り、仙台領に数回も行き使った。その後定之進と吉五郎の子供と仙台領に行き、贋金を見破られ二人とも捕り抑えられ牢屋に入れられた。
盛岡に付け届けとなり、盛岡の役人が仙台に行き二人をもらい受け、盛岡城下の牢屋に入れられた。贋金を造り使用しての罰は一般に軽い刑で終わる場合が多いようである。識者によれば、役人も贋金造りを見て見ないふりをしていたのではなかったか。経済の混乱期、貨幣の絶対量が不足していたから、贋金のために救われた人々は武士も含め多かったからではないかという。
【草井沢本の記録】
☆伊勢参り ☆屋根普請・屋根の葺き替え
六月日蝕八分半欠ける。閏八月あり。この年の作柄は中ぐらいであった。この年、伊勢参りに同行した。草井沢の清助、本屋敷の亀之助、久太、嘉右エ門、伊之助、三蔵耳取の徳右エ門、鶴松、本内の三之助、熊、鹿地の孫太郎、幸助、合計十二人で参宮した。
正月五日に出発して四月六日に帰宅した。三ヶ月の旅であったことが分かる。三月から四月まで重助の屋根普請、本屋敷の三右エ門も葺き替えをやった。《「歴史年表」より・・・水戸藩、常陸国大津浜に上陸したイギリス捕鯨船員を捕らえる。イギリス捕鯨船員、薩摩国宝島に上陸し、略奪。この年シーボルト長崎に鳴滝塾を開く。第一次ビルマ戦争始まる(ー1826年)》
文政八年 乙酉(キノトトリ・・・1825年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は凶作。年末の十二月二十八日より正月節までは天気は良かった。正月十五日には北東風のやませが吹いた。雪は二尺約60cmも積もった。十七日より二十一日まで毎日移り変わることなく風雪が続き三尺ばかり、約90cm余りも積もった。何年にも経験したことのない風雪であった。正月二十九日彼岸入。二尺ばかり雪が降り積もった。三月十六日は八十八夜であった。
三月二十二三日頃より種蒔きする。五月七日頃より田植えが始まった。土用は六月七日でそれより天気は良かった。六月二十四日より北風が吹いた。七月九日まで毎日吹き、十日には西風となった。七月十三日洪水となり、湯本の山室橋が落ち流された。それより毎日来た風が吹いた。
七月二十日は二百十日で、稲穂が少し出始めたが、花咲く間のない悪天候であった。八月八日の秋彼岸より天気は良くなった。数少ない実りの田では刈り取った大束一つから一升ぐらいの籾がとれた。水の取り入れ口で冷や水が入る田では実にならなかった。年貢割合は元歩の六歩引他に二百五十駄、26.25tの割引があった。
他領から買い入れた米価は一升1.5㎏が六十文くらいで、約1500円もした。秋田の横手では米一升四十文くらい、約1.000円であった。六月初め頃より毛虫が多く、草木の葉が喰い荒らされた。横手の山内では稲や大豆も食われ大変困ったということである。御代官は前年と同じであった。
【下巾本の記録】
☆凶作で年貢割引 ☆七月大洪水 ☆殿様逝去・南部修禮様相続
作柄は生育は止まり青立ちのままで稔らなかった。年貢の割合は文化十一年(1814)より二歩引きで、安永四年(1775)の元歩より五歩引きであった。去年の割合からすると六歩引きとなる。御代官 栗谷川伊右エ門、新渡戸八郎代わり高田等が着任した。
この年、五月末の田植え時期が過ぎても二十日あまり大日照りで田畑とも水不足で苦労して植える。六月四日夏の土用入りなのに大変に冷えた。続いて雨がしきりに降り、気候不順がはなはだしく稲穂は出ずに枯れた。あるいは皆出ずに青立ちのままであった。今年の年貢割合は前に書いた通りであったので早速割引のお願いを申請した。つまり引き米を去年に引き続き願い上げ、願いの通り二百五十駄26.25tの割引きがあった。
この割引は収穫高一石(150㎏)に付き四歩余り(40%)に当たる。ただし収穫高の多少によって三段階に分けて配分されることになった。割引米の二百五十駄のうち三十六駄余は不塾で収穫無しのため、別に調査して年貢は無しとされた。
七月十三日は大雨が降り洪水となった。川端近くの田畑、橋は落ち流された。過去五十年は経 験したことのない洪水であったということである。五月大野村の野に清水ガ野村の百姓と老名、肝入が立会い野道に杉並木を植えた。
八月二十日殿様、第三十七世利用公は江戸で亡くなられた。「南部史要」によれば年令は二十 三歳であったという。その後南部修禮様が相続された。十二月十六日に江戸城に登り、四品の官位を仰せ付けられた。御名を南部信濃守となるよう江戸表御老中青山下野守様より仰せ付けられた。
米一升(1.5㎏)の値段は四十八文、約1,200円であった。古米一升は五十四文、約1,350円であった。他領地から買い入れた米の値段は、一駄(105㎏)に付き四貫三百文位約107,500円であった。
【白木野本の記録】
☆吉五郎・仁兵衛 盛岡牢屋入り
正月二日 大野の吉五郎、新町の鍛冶仁兵衛を役人が来て取り押さえ、盛岡に連行し牢屋に 入れられた。どのような罪を犯したのか記録には何も記されていない。文政九年の記録には、仙台で贋金を使用した罪科とある。
【草井沢本の記録】なぜかこの年の記録はない。《殿様利用(トシモチ)公が逝去された後、相続された南部修禮様は第三十八世利済(トシタダ)公である。「歴史年表」より・・・幕府、諸大名に異国船打ち払い令を出す。鶴屋南北作「東海道中四谷怪談」江戸中村座で初演。ロシア、ニコライ一世即位。イギリスで鉄道開通。》
文政九年 丙戌(ヒノエイヌ・・・1829年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作、平年並みの出来であった。御代官 高田等、栗谷川伊右エ門の代わり藤根瀬内太田村の浄圓寺御堂建立する。
【下巾本の記録】
☆耕作米・年貢米・囲籾拝借 ☆定之進、吉五郎親子打ち首 ☆浄圓寺建立
☆白高野金山出入りの者あり ☆狼狩りあり
作柄は中作。年貢割合は文政七年(1824)の割合と同じ。安永四年(1775)の元歩より一歩増しとなった。御代官高田等、栗谷川伊右エ門正月に代わり藤根清内着任。
去年は不作であったので、耕作米、お蔵に収める年貢米、非常時に備えた囲い籾もなくなって四月にお上から拝借した。年末には拝借した米を残らず上納した。去年の秋より大雪降り積もり近来に大雪となった。しかし、春の土用中から日和が続き、気温も高く、気候が良く雪は早く消えた。
苗代に種まきしてから三十日でどこでも田植えが始まった。麻に虫がつき葉を食い倒されたところもあり、種を撒き直した者もいた。五月七日 新町高橋定之進、大野村吉五郎親子の三人は打ち首となった。罪科は去る文政七年(1824)に仙台で贋金を使い押さえられて、城下の牢に入れられ三年になり、ついに処刑されたものである。
太田村浄圓寺建て改まる。米価は一升(1.5㎏)五十七文、約1,245円であった。他領地から 買い入れた米価は一駄、105㎏が二貫九百五十文、約73,750円であった。小豆の出来は上々であった。本屋敷の白高野金山に出入りする者がいるということである。そのためか天気が甚だ不順となつたと悪い評判がたち、雨は日々降っている。代官所よりの取り調べがあり、沢内中から人足が出、また、狩人のマタギが召集され、白高野金山の山元に行き、金山一帯を調べ廻った。この年、狼が多く入り来て、度々狼狩りを仰せ付けられて人足が出た。
【白木野本の記録】
五月二十七日 定之進、吉五郎親子は打ち首となる。仁兵衛は青森五戸に追放になった。
【草井沢本の記録】なし。《文政七年の記録の中で「一般に贋金作り、贋金使用の刑は軽いようだ」と記した。この年の記録では、打ち首の刑に処せられている。仙台藩で使用したことが大問題になり、盛岡藩は対外政策上、打ち首にせざるを得なかったと思われる。「歴史年表」より・・・幕府、関東全域に改革組合村の結成を命ずる。調所広卿、薩摩藩の財政改革に着手。フランス、アルジェリア侵略を開始。》
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6101 「沢内年代記」を読み解く(二十四) 高橋繁

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