6115 最後の殿様の「最期」:徳川慶喜 平井修一

<武家政権最後の征夷大将軍。明治2(1869)年9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。政治的野心は全く持たず、写真、狩猟、投網、囲碁、謡曲など趣味に没頭する生活をおくり、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
明治30(1897)年に東京・巣鴨に移り住む。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。
明治35(1902)年には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年ぶりに政治に携わることになった。
明治43(1910)年12月8日、七男・慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。
大正2(1913)年に感冒にて死去。享年77(満76歳0ヶ月25日)は徳川歴代将軍の中でも最長命であった>(ウィキ)
徳川慶喜は最後の将軍だったわけだが、在職期間は慶応2年12月5日(1867年1月10日) ー 慶応3年12月9日(1868年1月3日)の1年である。前後を含めて波乱万丈の人生だったが、軍の最高司令官でありながら鳥羽・伏見戦争で将兵を残してこっそり逃げ出したため、現在でもあまりいい評価はないようだ。
無責任、無節操だが、このおかげで江戸は戦場にならずにすんだし、戊辰戦争も短期間ですんだとは言えるだろう。とは言うものの言動のあまりにもの軽さには、小生のような軽輩でも唖然とさせられる。
部下の浅野美作守の証言。
「(慶喜曰く)事態日々に切迫して、過激論者暴威を極め、制御の道もあらばこそ、遂に先供もの間違いにより、伏見の開戦となり、錦旗に発砲せりと誣(しい)られて、今は朝敵の汚名さえ蒙りたれば、余が素志は全く齟齬して、また如何ともするあたわず。
さればとてこの上なお(大阪城に)滞城するときは、ますます過激輩の余勢を激成して、いかなる大事を引き出さんもはかられず、余なくば彼らの激論も鎮まりなん。
故に余は速やかに東帰して(江戸へ下る)素志の恭順を貫き、謹みて朝命を待ち奉らんと欲するなり」
これが1月6日。ところが前日にはこうアジっているのである。「会津戊辰戦史」から。
「事すでにここに至る。たとえ千騎戦没して一騎となるといえども退くべからず。汝らよろしく奮発して、力を尽くすべし。もしこの地破るとも関東あり、関東破るとも水戸あり。決して中途に止まざるべし」
秘密はまずは味方を欺くこととは言うが、すさまじい二枚舌だ。素人の小生なんぞはタジタジとしてしまうが、貴種は堅気の度肝を抜くような奇策を講じるからご用心である。「責任」なんていう言葉は辞書にないのである。
こうして慶喜は余生を面白おかしく過ごしたようだ。本人はそれを全く恥じていないというのが、いかにも貴種らいしい。
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コメント

  1. 通りすがり より:

    徳川慶喜の評価は、難しいですね。
    確かに、鳥羽伏見の戦いでは、戦いの最中に、自分だけ、こっそりと夜陰に乗じて、江戸に逃げ帰っている所を見れば、「弱腰」・「腑抜け」といった評価になるのでしょう。
    しかし、逃げ出した江戸では、当時、窓際族同然だった勝海舟を幕府軍の総大将に就け、一方、血気盛んな主戦派たちを江戸から追放した。その後、慶喜は、上野寛永寺に入り、蟄居閉門。その後は、よく知られているように勝海舟の超人的な活躍があり、史上稀な江戸城無血開城がなされ、その結果として、江戸全体が灰燼に帰す危機から救われた。
    さらに言えば、日本全体が内戦状態に陥ることからも免れた。
    慶喜は、名君なのか、はたまた迷君なのか。

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