*「伝書鳩」の調整工作はいったい何だったのか
民主党代表選は菅直人首相と小沢一郎前幹事長の激突となった。 それにしても、鳩山由紀夫前首相のあの直前の調整工作は、いったい何だったのだろうか。
両氏の間を仲介するとして動き、菅首相との間で「トロイカ+1」(小沢、菅、鳩山3氏に輿石東参院議員会長)の挙党態勢を維持していくことで合意したという。
鳩山氏には「伝書鳩」なる新しいニックネームがついた。 これは要するに、小沢氏を党最高顧問とか顧問会議の一員として「遇し」、仙谷由人官房長官か枝野幸男幹事長を更迭して親小沢系議員に差し替えるといったものだったらしい。
これを小沢氏が万一、飲んでいたら、小沢氏の政治生命はそこでおしまいになっていたのではないか。 表向きは、鳩山氏が調整に動いた労を多としながらも、ハラの中では「何をバカなことを」と思っていたに違いない。
鳩山氏の行動によって、多くのメディアは代表選の告示直前に、「小沢氏不出馬で調整」とミスをおかす羽目になった。 前首相の調整によって、挙党態勢維持で一致したというのだから、これはそれなりに重視しなくてはならなかったのだ。
そこに、メディア側の「小沢嫌い」の体質が加わって、不出馬の方向を打ち出したわけだが、一日でひっくり返った。 鳩山氏の評価もこれでまた一段、下がったのではないか。
*「政治オンチ」の菅首相の限界が透けて見える
民主党のためにも、選挙で堂々と雌雄を決するというのが一番いい。人事での妥協工作が実現していたら、密室談合批判を招きかねない。
菅首相が鳩山提案をいったんは飲んだのだとすれば、なぜ、菅体制発足の時点で挙党態勢が組めなかったのか。 そこに菅直人という政治家の「政治オンチ」といっては申し訳ないが、限界が透けて見えるような気がする。
これが、いいか悪いかは別として、自民党全盛時代の実力者であったなら、党の幹事長には反主流派の人をわざと起用するなどして、党内の亀裂回避に腐心したはずだ。
菅体制発足時点での菅首相の心境を斟酌すれば、「鳩山も小沢もこけた。これで自分の天下になった」と思い込んでしまったのではないか。それが「脱小沢」を看板にした布陣につながった。
ここが政治の恐ろしいところだ。小沢氏も鳩山氏も「政治とカネ」の問題でダブル辞任に追い込まれたのだが、それによって一定の「けじめ」をつけたことにはなる。
したがって、辞任した瞬間には、両氏の政治力は地に落ちたのかもしれないが、すぐあとに政治展開の新しいステージが待っているのだ。菅首相はそこに気付かなかった。
前回コラムで、朝日新聞の社説(8月27日付)を取り上げ、「政治とカネ」の問題で辞任して3カ月もたっていないのに小沢氏が出馬することについて、「あいた口がふさがらない」という見出しを掲げたことを紹介した。 それについて関係者から、「産経だって同じ表現を使っているじゃないか」と指摘された。
たしかにその通りで、仕事上、毎日、全紙を読んでいるのだから、気がついてはいた。朝日と産経は対極の論調を掲げることが多いが、小沢氏の問題では見事に一致しているのだ。
*新聞は「紙」ではあるが、「神」ではない
産経の「主張」(社説)は<小沢氏出馬 国の指導者に不適格だ 「政治とカネ」で信頼失った>という見出しで、書き出しはこうなっていた。
<「とことんクリーンな民主党」を実現すると鳩山由紀夫前首相が、小沢一郎前幹事長とともに身を引いてから2カ月余りで再び小沢氏を担ぎ出す所業には、開いた口がふさがらない。>
「あいた」と「開いた」の違いだけである。産経OBとして、後輩が書いた表現を揶揄することにちょっと躊躇してしまったのだが、指摘された以上は、こちらの真意を明らかにしておかなくてはなるまい。
言論表現の自由からして、何をどう書こうとかまわない。多様な言論が存在してはじめて民主主義が根付く。だが、政治ジャーナリズムである以上、「開(あ)いた口がふさがらない」という情緒的表現は、庶民感覚には迎合するかもしれないが、問答無用、一刀両断のあやうさをはらむ。そう断じてしまっては、そこから先の議論や考察が進まないではないか。
2カ月余りで復活しようとするのがいけないのか。どれだけたてばいいのか。民主党内で「小沢待望論」に与している議員たちは指弾されるべき対象なのか。
この局面で小沢氏が出馬することの意味合い、背景、政治力学といったものを解析していってこそ、政治ジャーナリズムの本旨があるのではないか。
シャレ話のようで恐縮だが、「新聞は『紙』ではあるが、『神』ではない」のである。 政治家の出処進退を批判するときは、それなりの「たしなみ」がほしい。
*小沢氏は代表選を制しても首相にはならない
というのは、政治家は有権者から選ばれた存在であるということがすべての基本だからだ。 であるからこそ、尊敬に値する立場を得る。それも何万という有権者に名前を書いてもらい、国政の場に登場するのだ。
電子投票のシステムはすでに出来上がっているのだが、これがいっこうに本格導入されないのは、投票用紙に名前を書いてもらうことの重みを捨てきれないためだ。
コンビニなどにあるATMのような機械で投票すれば、短時間で集計もできるし、便利なことこのうえもないのだが、有権者の意識に重大な変化をもたらしてしまうかもしれない。
政治家の生殺与奪を握るのは有権者である。決して新聞ではない。そこのところをきちんと見据えておかないと、議会制民主主義が成り立たない。
むろん、政治家はあらゆる批判の矢面に立たされるわけで、メディアはいかに厳しく批判しようともかまわない。 だがそれは、有権者に判断材料を提示することが最大の使命であるという感覚に立たないといけない。そこをはき違えると、おかしなことになる。
そこで代表選の結果はどうなるか。小沢氏が優位に立っているとは思う。 だが、メディアの「小沢批判」がどう作用するか。そこが読み切れない要素として残る。
ここから先は政治記者を長くやってきた立場からの直感である。小沢氏はたとえ代表選を制しても首相にはならないような気がする。
*「総代分離」か、総理には原口総務相が最有力
かつて自民党にあった「総総分離」(総理と総裁を別の人物が分担する)の民主党版である。 「総代分離」とでも呼ぶべきか。代表選挙で圧勝すれば、その可能性も高まることになる。
その場合、これも乱暴な直感だが、原口一博総務相が最有力と見る。 ギラギラとした親小沢派の雰囲気を消し、実に巧みなスタンスにいる。
小沢氏に対しては、首相になった場合、予算委員会で数時間の質疑に耐えられるのか、分刻みの首相日程をこなせるのか、といった懸念がついてまわる。「総代分離」ならそれも克服できる。
国務大臣は首相の同意がなければ訴追されないという憲法75条が適用されなくなる、とする見方もあろう。だが、ときの首相を「指名」できるだけの権力を手中にしたら、検察も国税も手を出せまいとする観測もある。
それに、万一、強制起訴されたとしても、確定判決が出るまでに何年もかかる。それまでは「推定無罪」の原則が適用される。
いわれてきた「ゼネコン疑惑」の全貌が解明されたのではなく、小沢氏が問われたのは政治資金収支報告の記載の不明朗さなのだ。そのあたりのバランス感覚も働いていくのではないか。
選挙にはめっぽう強いというのが小沢氏の真骨頂だから、代表選を勝ち抜くためにはあらゆる手法を駆使するだろう。
*1978年自民党総裁選の「大福決戦」を思い出す
政治記者の駆け出し時代の1978年自民党総裁選を思い出している。 福田赳夫首相に対抗して大平正芳幹事長が出馬した。2年後に政権を禅譲するという「大福密約」があったのに福田氏がこれを守らなかったためといわれる。
最大派閥の田中派が大平氏を支援、全国でブルドーザー作戦とまでいわれた一大集票活動を展開した。
われわれは福田氏が勝つと予想していたのだが、総裁予備選は大平氏の逆転勝利に終わった。福田氏が「天の声にも変な声がある」と述べたのはこのときである。
今回、党員・サポーター35万人には往復はがきで投票券が郵送される。衆院の300小選挙区ごとに勝ったほうが1ポイントを得る。
国会議員は1人2ポイント(計824ポイント)、地方議員100ポイント(ドント式で配分)というシステムだから、党員・サポーター票300ポイントが全体の4分の1を占める。この部分の争奪戦が結果を左右するかもしれない。
かつての「大福決戦」を思い出すのは、そういう意味である。
小沢氏には、いざとなれば党を割ることも可能だろうし、「大連立」の手法もある。そうしたことが反小沢陣営には強烈な「脅し」として立ちはだかるに違いない。
菅首相は鳩山氏の調整工作に乗ったことで、党分裂回避が最大の眼目であり、そのためには仙谷氏ら盟友を切ることも辞さないという姿勢を露呈してしまった。 逆説的になるが、その時点で勝負あったといわなくてはなるまい。
杜父魚文庫
6177 「原口政権」への第一歩か 花岡信昭

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