6188 日米同盟が変わったとき 古森義久

レーガン大統領の登場が日米同盟をどう変えていったのか。自分の体験を中心に書いています。
■日米同盟、重み増す
初めて目前にみたロナルド・レーガン大統領は活気と迫力にあふれていた。69歳とは思えない若々しい挙動と堂々たる体格なのだ。しかも腹にひびく太く柔らかな声で複雑な課題をわかりやすく説く語調は、親しみや信頼さえ感じさせる。それまで私が抱いていたイメージとは大違いなのに信じられない思いだった。
1981年1月29日、ホワイトハウスの旧執務室ビルでの大統領としての初の記者会見だった。共和党の超保守とされたレーガン大統領は、前年の選挙で現職大統領の民主党リベラルのカーター氏を「地すべり」と呼ばれた大差で破り、1月20日に就任したばかりだった。そのレーガン大統領を至近にみて、私は好感を覚えている自分にびっくりしていた。驚いた理由は当時の私が反レーガンの民主党系の人物たちに取り囲まれていたことが大きかった。
この年の冒頭から私は当時、所属していた毎日新聞社を休職し、米国大手シンクタンクのカーネギー国際平和財団に勤務した。この研究所は明確に民主党寄りのリベラル系だった。だからカーター政権で要職にあった人材を含め、民主党支持を鮮明にする学者たちが研究員として集まっていた。フレッド・バーグステン、ビル・メインズ、バリー・ブレックマン、キャリン・リサカーズ、I・M・デスラー、セリグ・ハリソンというような人たちだった。私も上級研究員という肩書を与えられた。
当時のカーネギー国際平和財団はワシントンとニューヨークの両方に大きなオフィスがあったが、そこで日常、接する同僚や上司はみなレーガン氏をぼろくそにけなすのだった。「三流映画俳優崩れの無知」「カウボーイが政治家になった」「右翼の好戦主義者」-などなど、なにしろ絶え間のない悪口雑言なのだ。私もかなり影響を受け、レーガン氏への評価をどんどん下げていった。だからなお有効だった記者証を使い、レーガン氏の初の記者会見に出てみて、本人が好感を与える政治家であることにまず驚いたのである。
ちなみに私がカーネギー国際平和財団に入ったのも日米同盟のためだった。上院外交委員会のスタッフから同財団に移った友人のリック・ギルモア氏が「日米関係が重要になったので、日本人の研究員を求めているぞ」と教えてくれた。確かにカーター政権の後期から日米関係では防衛と貿易の両面で摩擦が始まり、とくにソ連のアフガン侵攻以来、日米同盟のあり方が重要な論題となっていた。
私は「1980年代の日本の防衛=日米安保関係への意味」という題の研究プロジェクトを提案し、面接を何度も受けて、採用された。日本の企業などが米国のシンタンクに寄付をして、その代償に無給の研究員ポストをもらうという、その後に多くなったパターンと異なり、米側から正規の給料をもらっての勤務だった。
さてレーガン大統領は初の記者会見で「小さな政府」を推進する保守主義者らしく、冒頭でまず連邦政府機関の一部の廃止と政府の規制の60日間凍結を宣言した。政府規制の大幅な緩和や撤廃のための前段措置だった。そして大統領はソ連の意図について問われて答えた。
「ソ連の指導者たちはみな革命以来、自己の目標は世界革命の推進と共産主義の単一世界の実現だと宣言しています。その目標を達成するためにはいかなる罪を犯し、ウソをつき、だましても、道義にかなうとみなす。ソ連に対処する際はこのことを念頭にいれておかねばなりません」
後にソ連を「悪の帝国」と断じる言明へとつながる対ソ認識表明の出発点だった。善意を強調したカーター大統領の対ソ融和姿勢とは対照的である。だがレーガン大統領はこんな強硬な言葉をソフトな語調で微笑さえ浮かべながら述べていくのだった。「強いアメリカ」「自信あるアメリカ」、そして「共産主義への断固たる反対」という保守主義の最大支柱の表明だった。レーガン大統領にとっては長年の信奉の自然な発露なのだろう。
レーガン大統領のこの姿勢は当然、米国とソ連の対決を深め、日本を含む同盟国との防衛のきずなを強めることとなった。日米同盟も現実と期待の両面で重みを増していくのだった。
杜父魚文庫

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