<鈴木議員の実刑確定へ=無罪主張の上告棄却―受託収賄など4事件・最高裁>時事通信 9月8日(水)13時47分配信
鈴木氏と私は鈴木善幸内閣で大臣秘書官仲間だった。私は外務大臣秘書官を3年もやった中で政治家がつくづく嫌いになって政界から逃れたが、鈴木氏は中川一郎農林大臣秘書官から政界入りを目指し、様々な波風を立てた末に衆院議員になった。
田中角栄氏の下に草鞋を脱ぎ、政治資金の収集ではいつも強引な手法が噂されたものだ。私より12歳も年下だが、その度胸樽や大したものと感心する場面が多かった。
<受託収賄、あっせん収賄など四つの罪に問われた衆院議員鈴木宗男被告(62)の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は7日付で、被告側上告を棄却する決定をした。懲役2年、追徴金1100万円の実刑とした一、二審判決が確定する。
鈴木被告は確定後、収監される。公選法などの規定により、確定すれば失職し、懲役刑の執行後5年間は立候補できなくなる。
鈴木被告は、政治資金規正法違反罪と議院証言法違反罪を含め、一貫して全面無罪を主張していた。
2004年の一審東京地裁判決は、すべての事件を有罪と認定した上で、「高度の廉潔性を求められる要職にありながら国民の信頼を裏切った」と非難。「反省は皆無で、虚偽の陳述をしてはばからない被告に刑を猶予するのは相当ではない」として、実刑を言い渡した。
二審東京高裁も08年、「行政に不当な影響を及ぼし、社会の信頼を害した」として、一審を支持していた。鈴木被告をめぐる一連の事件では、佐藤優外務省元主任分析官(50)ら12人が起訴され、鈴木被告を除く11人の有罪が確定している。
判決によると、鈴木被告は北海道開発庁長官、官房副長官だった1997~98年、林野庁への口利きの見返りなどとして、2社から1100万円のわいろを受領するなどした。>(時事)
<1997年9月に北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官として初入閣。1998年6月には現職閣僚として初めて国後、択捉両島を訪問した。
2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中真紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として数々の疑惑が浮上。
2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党の辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど疑惑の総合商社なんですよ!」と批判を受けた。
3月15日、自民党を離党。6月19日、やまりん事件であっせん収賄容疑で衆議院本会議で逮捕許諾決議が可決されて逮捕される。6月21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決された。
7月20日に斡旋収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で起訴。政治資金規正法違反の罪でも起訴された。
2003年9月、衆議院選挙の直前に保釈。その後衆議院本会議に出席。議員辞職勧告決議がされた国会議員が決議を無視して登院したのは初めてのことであった。
2003年10月、胃癌を手術。 2004年の参議院選挙に北海道選挙区で無所属で出馬するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第1審で懲役2年、追徴金1,100万円の実刑判決が下された。2
008年2月26日に東京高等裁判所においても、控訴棄却となり、即日最高裁判所に対し上告した。
2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成し代表に就任。9月の第44回衆議院議員総選挙に北海道ブロックでの比例1位候補として立候補して当選、衆議院議員復帰を果たした。>「ウィキペディア」
杜父魚文庫
コメント