6209 山口多聞海軍中将のお屋敷で捕った雀の雛 古沢襄

東京市牛込区というのは、今では東京都新宿区になったが、戦前はお屋敷街として知られていた。私の家はお屋敷街とはほど遠い貸家が並んだ長屋。前の家は昭和文学史に残る文学雑誌「日暦」の編集者だった古我菊治さんが住んでいた。隣は文学雑誌「人民文庫」の主宰者だった武田麟太郎一家と縁が深い洋裁師の小母さんがいた。いうなら戦前の文学横町だったと言っていい。
この家で小学校の六年間を過ごしたが、学校から帰ると近所の子供たちと坂の上のお屋敷街に行って暗くなるまで遊んだ。坂の上に矢島姓のお屋敷がある。聞くところによると薬で大儲けした富山県人。そこの息子が同じ小学校に通っていたので、上がり込み田河水泡氏のノラクロ漫画を読み耽った。
ノラクロ漫画に飽きるとお屋敷の探検に出撃する。矢島邸から少し行ったところに流行作家の吉屋信子さんの洒落た洋風邸がある。その近くに山口多聞海軍中将のお屋敷、また穂積姓の法律学者のお屋敷があった。私たちの探検の狙いは山口多聞さんのお屋敷の瓦の白壁。門番の子が同じ小学校だったので、その案内でお屋敷に潜り込み、白壁の前で耳を澄ませる。
「チイ、チイ」と雀の雛が鳴く声がする。瓦の下に手を入れて雛を捕る。その雛を家に持ち帰って、ご飯粒を摺りつぶしたエサをやって育てたものだ。戦前の東京には、このような風景があった。そのおかげで山口多聞海軍中将のことは、子供心にも刻み込まれている。
山口多聞海軍中将は旧松江藩士の子として生まれ、東京の開成中学から海軍兵学校に入校した40期生徒。ミッドウェー海戦で戦没しているが、空母機動部隊の草分けとして、海軍部内では山本五十六元帥に次ぐ日本海軍を担うエースと目されていた。
ウイキペデイアによれば、ミッドウェー海戦でも二航戦司令官として「飛龍」に座乗。空母らしき艦船を含むアメリカ艦隊発見の報告を受け、「直二攻撃隊発進ノ要アリト認ム。」と、ミッドウェー島攻撃用に陸上爆弾を装備させていた部隊をそのままアメリカ空母攻撃に向かうように進言したが、米艦隊に対して陸上装備では攻撃力に欠け戦果を期待できない事を理由に、南雲忠一司令長官に却下されたという。
主力四空母中「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が敵急降下爆撃により大被害を受けると、第八戦隊旗艦「利根」と機動部隊全艦に対し、「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を発し、指揮継承順上位の第八戦隊司令官・阿部弘毅少将(海兵39期、少将進級は同日)に通信、また「飛龍」艦内には、「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と通報、乗艦「飛龍」とともに、全力を挙げアメリカ機動部隊への反撃に移った。
二次に亘る航空攻撃の結果、敵主力空母「ヨークタウン」を大破(後、潜水艦により撃沈)させるも、第三次攻撃を前に飛龍も被弾。作戦能力喪失と判断するや速やかに総員退艦を命じ、自らは加来止男艦長と共に艦と運命を供にした。
彼は山本五十六と同様の経歴(アメリカ駐在武官・大学留学経験や軍縮作業等)を持ち、避戦派とされる山本や井上成美同様彼我の国力差や国民性を熟知しており、初戦で出足を挫き早期講和を意図したとされる山本が提案した真珠湾攻撃の真意を理解した数少ない指導者の一人であった。敗れたとは言えその戦略戦術および戦歴から、戦後、連合国側からも最大級の評価を受けている。
一説によると、ニミッツ提督が山本五十六長官機の撃墜の是非を(「ヤマモトを殺しても、後任により優れた指導者が現れては困る」と)情報部のレイトンらに諮った際、山本の後継者として真っ先に名が挙がったのが山口多聞だったと言われる。レイトンは、彼は既に戦死しているから安心だ、ヤマモトに代わり得る人物は日本には他にいない、と返答したという。(半藤一利・保坂正康『昭和の名将と愚将』など)
戦後、真っ先に牛込のお屋敷氏街に行ってみた。三月十日の東京大空襲で一面が焼け野原になったていたが、今では山口多聞中将のお屋敷跡に家々が建ち並んでいる。乗艦「飛龍」とともにミッドウェーに沈んだ山口多聞中将は魂魄となって祖国に戻っている筈である。墓所は東京都港区の青山墓地にある。
杜父魚文庫

コメント

  1. 大橋 圭介 より:

    山口中将の話、なつかしく読みました。家もそうですが、僕らより下の学年に息子さんがいました。お父さんが戦死したのに、元気よく学校で走り回っていたのを覚えてます。
    いま、どうしているのか?と古沢さんの文を読んで気になりました。

タイトルとURLをコピーしました