■1934年(昭9) 元28歳・真喜25歳・襄3歳
◇この年,小石川の白山上に転居。元は「覚え書」に詩を書きつけている。
童 子(わらし)
我 三歳の子もてり/我 妻をめとりて四歳を経ぬ
我 二十八歳にして悲しみを知る
理は心の糧ならず 無謀こそ
愛 情
疲れたるか?
疲れたるか?
寥々として胸を搏つ秋あり
読 誦
僕は何を書く時でも あるペリオド
を打つと 必ず妻に読みきかす
多くの場合 批判を求める心なしに
癖かと思はる
◇2月22日,コップ傘下の日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解散を決定。直後にコップも解散
◇3月、北島暲男、為田ヨネが新町小学校を卒業
*3月,文芸懇話会が結成される
◇5月,元は在京岩手出身による文芸同人誌『九月』に「馬を売る日」の改作を発表
◇このころ,元は雑記帳「Fiction」を書き始める
◇8月,古澤元は日記に“創作に雑文がわざわいするとは誰もが言う。その通りだ。手癖になってどれほど悩まされたことか……。母から十円借りる。「雑文は金になるそうだに,どうして書かないのだえ」決って言われる。また五十円借りた。「お前,喰わずに小説も書けまいが,どうする気だえ」とくる。黙殺してまた三十円借りた。「お前は,やくざ者だよ」かくしてまた雑文稼業を始めると決めた”と書いている
*11月4日,国鉄山田線の盛岡~宮古間が開通
■1935年(昭10) 元29歳・真喜26歳・襄4歳
◇1月,目白に転居
◇2月,真喜の異父弟金一郎が、横浜高商の受験勉強のため上京し、古澤家に寄寓
*2月,高見順が「故旧忘れ得べき」を『日暦』第7号から連載を開始し,7月で中断。第1回の芥川賞候補となる
◇3月4日,古澤元は日記風雑記帳「杜父魚」を書き始める
*3月,『日本浪曼派』(~1938年8月)が保田与重郎・亀井勝一郎らによって創刊される
◇4月11日,真喜・襄母子はまた上田に一時帰郷。木村家では真喜に上田で独立した生計を成り立たせようと,近くにビリヤード店を一軒用意していた。元は「離京風景――疑惑の記録」と題して「覚え書」にこう記している。“いろいろ考えた揚句,私だけは尚しばらく東京に残ることにし,まき子と襄だけを祖父母同伴で上田に発たした。四月十一日午後五時三十五分の汽車で……/こんな離京の仕方があるだろうか。義弟の受験上京以来,一日として裕(ゆった)りとした時間もなく,その上しばらくの別れだとはいえ,只の一度も子供や妻といっしょに食事をする折もなく,尻に火をつけられたようにして離京する。こんな無情なことはあるまい。まき子が発車まぎわに泣いていたが,どういう意味の涙か,解らぬことではない。/「パパも汽車に乗って……」と襄に駄々をこねられたのには些かならず暗たんとした気持ちだった。目頭が熱くなるので,汽車が動き出すと共に去る”
*5月,田宮虎彦が新田潤の紹介で『日暦』に参加
◇6月中旬,古澤元は林熊王に“誰かに指導してもらいたいんだが,武田(麟太郎)さんなんかどうだろう。頼めば引き受けてくれるかな”と相談する。だいぶ以前から武田麟太郎と不仲になっていた林は“行ったらいいじゃないの。武田のほかにいい作家なんかいないんだから。お前なんか,行ったほうがいい”と応じて,長沖一(はじめ)を紹介する。長沖は大阪生まれで武田麟太郎と同年の帝大出で文学仲間だった。元はこの長沖に連れられて茅場町の武田家を訪ねる
◇7月,武田麟太郎の世話で那珂孝平・矢田津世子らとともに『日暦』に参加
◇8月,自叙伝的小説「びしやもんだて夜話」(単行本『びしやもんだて夜話』収録分には末尾に“一九三五,一二”とあるが?)の第1回を『日暦』8月号(第11号)に発表。第13号・第14号と分載は計3回
◇秋,真喜・襄母子が帰京し,古澤一家は中野区の上高田に転居
◇9月,第1回芥川賞が石川達三「蒼氓」に,第1回直木賞は川口松太郎「鶴八鶴次郎」に決まる
◇11月,岸丈夫は雑誌『かぶとむし』第3輯に漫画「輝ける都会」「娘のゐない村」と短文「漫画雑感」を発表
■1936年(昭11) 元30歳・真喜27歳・襄5歳
*雑誌『文芸懇話会』創刊
◇2月26日,いわゆる2・26事件が発生。皇道派青年将校が1400人余の部隊を率いて斎藤実内大臣・高橋是清蔵相らを殺害,永田町一帯を占拠して国家改造を要求。このとき上高田の古澤家には『戦旗』の発行者だった上野壮夫とその妻小坂多喜子が来あわせていた
*2月27日,東京に戒厳令が布かれる
*2月29日,2・26事件の反乱軍が帰順
◇3月,武田麟太郎が『人民文庫』を創刊(~1938年1月廃刊・全26冊),定価25銭。元は編集実務に携わり,弟の岸丈夫が創刊号の表紙絵を描く。『人民文庫』は同人制をとらず,執筆グループには『日暦』から高見順・荒木巍・渋川驍・新田潤・石光葆・大谷藤子・那珂孝平・矢田津世子・田宮虎彦・円地文子・伴野英夫・大友弥之介ら同人全員が個人のかたちで参加し,第2次『現実』から本庄陸男・平林彪五・湯浅克衛・細野孝三郎・上野壮夫・小坂多喜子・堀田昇一・松田解子らが参加した。創刊号に高見順は『日暦』で中断していた「故旧忘れ得べき」の連載を再開し,9月まで続いた。元は評論「雑言一束」(1936年1月記)を発表
◇このころ,真喜は友人のやっていた雑誌『雑記帳』の編集部に勤めていた
◇3月、太田祖電が新町小学校を卒業
◇4月,元は小説「起生妙薬」を『人民文庫』第1巻第2号に発表
◇小説「黄昏の記」を『文藝首都』に発表
◇小説「黴の花」を『人民文庫』に発表
◇7月6日,無名のカメラマン土門拳が武田麟太郎を訪ねる。孤高の雰囲気がただよう古澤元の風貌に興味を駆られ、ポートレート十一枚を撮影
◇8月?,元はエッセイ「阿蒙の文学」(1936年6月記)を『人民文庫』第1巻第6号に発表
◇9月?,元はエッセイ「こう門の一針」(1936年7月記)を『人民文庫』第1巻第7号に発表
◇9月中旬,真喜は武田麟太郎の仕事場である茅場町会館で口述筆記の仕事を始める
*10月17日,右翼の橋本欣五郎が政治団体の大日本青年党を結成
◇10月25日夜,東京・新宿角筈のレストラン大山の2階で徳田秋声研究会を開いていた『人民文庫』の執筆グループが無届けを理由に私服の特高と警官隊に検挙され,淀橋署に連行・留置される。高見順・田宮虎彦・新田潤・田村泰次郎・立野信之・本庄陸男・上野壮夫・小坂多喜子・那珂孝平・湯浅克衛・伴野英夫・神山健男・半田裕一・古澤元・堀田昇一・菊地克己・下村恭介の17人。高見順ら11人は証拠不十分のため一晩で釈放。前歴の多い古澤元,編集責任者の本庄・湯浅は3日目に釈放。この事件のとき武田麟太郎はストレスで胃をやられて帝大病院に入院中だったが,その妻留女(とめ)は心労のためおなかの子を10月28日に月足らずで出産し,29日に死なせている
◇12月,元は真喜を題材にした小説「年の輪」を『人民文庫』第1巻第10号?に連載開始。~1937年(昭12)のあいだに6回
◇12月26日朝,上高田の自宅で,古澤元の祖父善五郎が死去,享年88。戒名は興善院快参永光禅居士
*沢内村助役に古澤吾一
■1937年(昭12) 元31歳・真喜28歳・襄6歳
◇古澤一家は牛込区(現・新宿区)砂土原町へ転居。同じころ上野壮夫・小坂多喜子夫妻も砂土原町へ転居している
◇6月,武田麟太郎一家が麹町二番町に転居
◇新盆前,元は祖父善五郎の遺骨を沢内に分骨するため沢内村にひとりで帰郷(小説「鴬宿へ」より)
*7月7日,蘆溝橋で日中の軍が衝突,日中戦争の発端となる
*8月19日,北一輝,2・26事件に連座して死刑執行さる
◇このころ,元は小説「埋骨」を『人民文庫』に発表
◇このころ,元は評論「小林多喜二の『研究』」(1936年9月記)を『人民文庫』第1巻9号?に発表
◇このころ,元は小説「鉄路」を『人民文庫』に発表
◇このころ,元はエッセイ『時代の児・新田潤」(1936年10月記)を『人民文庫』第1巻第10号?に発表
◇このころ,元は小説「妖しげな勘」を雑誌『雑記帳』に発表
◇このころ,元は未発表エッセイ「偶感追想」を執筆
*11月8日,中井正一・新村猛・真下真一ら『世界文化』グループが検挙される
◇12月,『人民文庫』発禁
◇12月,高見順は『人民文庫』の執筆者から脱退を考え、箱根に武田麟太郎を訪れ、休刊を話合う
*12月15日,第1次人民戦線事件。山川均・加藤勘十・大森義太郎らの労農派など400人が検挙される
*12月22日,日本共産党・日本労働組合全国評議会に結社禁止令が出る
■1938年(昭13) 元32歳・真喜29歳・襄7歳
◇1月,『人民文庫』はこの1月号をもって廃刊
◇1月2日,古澤元は麹町の武田麟太郎家へ年賀に行く。『人民文庫』を廃刊に追い込んだひとりの田宮虎彦が年賀に訪れたとき,“何しに来た,何のかんばせあって,来れるんだ!”と追い返す
◇1月末,襄の愛日小学校入学のため牛込区払方町に転居。ここに1944年(昭19)2月まで住む。愛日小学校は当時の有名校で,府立四中(現・都立戸山高校)への進学率が高かった
*4月1日,国家総動員法が公布される
*7月,文芸誌『槐』創刊
*8月,『日本浪曼派』廃刊
◇9月,元は小説「鴬宿へ」を『槐』第1巻第3号に発表。同じ号で本庄陸男「石狩川」の連載開始
*11月7日,農民文学懇話会が結成される
◇このころ,元は藤田東湖を小説化するため資料を集め始め,水戸学に傾倒
■1939年(昭14) 元33歳・真喜30歳・襄8歳
◇4月,真喜の異父弟金一郎(23歳)が臨時召集される
*7月8日,国民徴用令が公布される
*7月23日,本庄陸男が肺結核のため死去
*9月1日,ドイツ陸空軍がポーランドに進撃,第2次世界大戦が始まる
杜父魚文庫
6224 年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(5) 吉田仁・古沢襄共編

コメント