■1972年(昭47) 真喜63歳・襄41歳
◎1月9日,真喜は満62歳に
◎2月,真喜は小説300枚の構想をまとめ,「碧き湖は彼方」と題して書き始める
☆◎3月,襄が共同通信社の富山支局長に異動。家族も富山に移り、ふたたび真喜の独居生活が始まる
◎4月16日,武田麟太郎の葬儀委員長を務めた川端康成がガス自殺。真喜はショックを受ける
*5月15日,沖縄返還
*7月7日,田中内閣発足
◎10月4日,真喜が神奈川県相模原市の自宅で脳血栓で倒れ,左半身麻痺となる
◎☆11月中旬,真喜は襄の運転する車で富山市へ移り,市内の県立中央病院115号室へ入院
◎入院後,富山県内に住む『人民文庫』時代からの親友池田源尚が病院へ真喜を見舞う。27年ぶりの再会
■1973年(昭48) 真喜64歳・襄42歳
◎☆7月,襄が金沢総局長となり,一家は金沢市内の社宅に転居。真喜も金沢日赤病院へ転院
◎このころ,池田源尚がふたたび真喜を見舞う。真喜の小説「碧き湖は彼方」が擱筆したら不定期刊の同人誌『星霜』に掲載したいと激励したが,真喜は書き流しの原稿を池田に託す
*沢内村長に太田祖電
■1974年(昭49) 真喜65歳・襄43歳
◎1月1日,真喜の日記“病舎の元旦は小雨。雪を残した目前の山がわびしい。このような元旦を,我が生涯に迎える日があろうとは考えても見なかった。なぜあの発作と同時に死ねなかったのだ。痛恨の思いのみ魂を噛む――遠くでHがしきりに呼んでいる。早く楽になりたい。/恍惚の人また一人逝きぬ雪の朝”“H”とは古澤元のことである
◎☆3月3日,真喜の日記“退院。息子夫婦と孫にかこまれて楽しい。ベッドから降りてあぶない足取りで,部屋から廊下を歩いてみる。襄がおぶって二階へ連れていってくれた。やはり息子だなあ,と嬉しい”
◇5月3日,古澤元没後28周年
◎7月,真喜は金沢日赤病院へふたたび入院
◎7月,真喜の小説「碧き湖は彼方」が『星霜』第13号から連載される。~1977年10月の第18号,計6回
◎このころ,真喜から藤村千代への手紙にこう書かれている。“またこうして貴女にお手紙書ける程度になりました。でももう二度と家へは帰れないでしょう。上田の弟はどうしているのか。私も手紙を書きませんし,あちらからもきません。人間関係は,一度切れるともろいものです。/『星霜』ごらんになった事と存じます。ちょっと恥しいのですが,貴女に肩肘はっても仕方ありません。私のすべてをご存じなのですから。千代さんの今までして下さった数々の御厚意は,決して忘れません。(中略)/和田さんに,お見舞いのお礼,よろしくお伝え下さい”
◎このころ,真喜の日記に書かれた短歌2首
“友います東都へかへる日はいつか 空しくすぎる日々を悲しむ”
“病む身にも心やすめる時のあり 思ひたちしことしおほせし日は”
◎10月,真喜の日記代わりの短歌1首
“このままに召される日ある我が身にも 病舎の秋はわびしかりけり”
*12月9日,三木内閣発足
☆3月、東京本社に帰任昇進の内示を受ける。
◎5月1日,真喜は金沢日赤病院を退院
◎☆5月6日,真喜は襄の運転する車で横浜・磯子のマンションに移る
*7月27日,ロッキード事件で田中前首相逮捕
*12月24日,福田内閣発足
■1977年(昭52) 真喜68歳・襄46歳
◎10月,真喜の小説「碧き湖は彼方」の連載が『星霜』第18号で終了。このさい池田源尚は続きが書けない事情を短文に書くよう勧めたが,それも叶わず,真喜は震える手で一篇の詩「碧き湖」を書いた
■1979年(昭54) 真喜70歳・襄48歳
*沢内村太田3―32の碧祥寺境内にマタギ収蔵庫が完成
◎11月4日,真喜の異父弟の木村金一郎が脳梗塞の闘病生活15年の末に死去,享年63。金一郎の死は真喜の病状悪化を招かないため秘せられた
*北島暲男が全国町村議長会副会長に就任
*玉泉寺本堂落成
■1981年(昭56) 真喜72歳・襄50歳
◇5月3日,古澤元没後35周年
◎12月中旬,真喜の病状が悪化し,自宅近くの病院に入院
■1982年(昭57) 真喜73歳・襄51歳
◎1月末,真喜は風邪を引いて危篤状態に陥る
◎2月6日,真喜が急性肺炎を併発して死去。享年は数えで73歳,満で72歳、戒名は郁潤院真室妙喜大姉
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