6235 「九戸政実の乱」と雫石・古沢理右衛門義重 古沢襄

十一回に及んだ「年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち」を書き終えてほっと肩の荷をおろした感慨に耽っている。年表だし、昭和文学史に関心がある人や長野県と岩手県の人たちにしか読まれないと思っていたので、杜父魚ブログに掲載するよりも、最初から「歴史と神話 杜父魚ブログ」に限定して掲載しようかと迷っていた。
あえて杜父魚ブログに掲載したのは、高橋繁さん(前西和賀町長)の「沢内年代記を読み解く」が広く日本全国で読まれていることに勇気づけられた。すでに二十六回を数えたこの記録は米国や中国にいる邦人にも読まれている。東北の一寒村の歴史記録に過ぎないといえば、それまでなのだが、日本人の心の故郷(ふるさと)の歴史記録という共通した思いが読者の関心を呼んでいるのだと思う。
「年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち」は、編集者の吉田仁さんに負うところが多い。私は資料を集めただけである。吉田さんは一年がかりで、資料を精査し年表を作成した。一回目の最初の項目に「■1591年(天正19) *南部藩の内紛”九戸政実の乱”起こる。二十六代南部藩主の南部信直は、豊臣秀吉の十万の軍勢の助けを借りて九戸城五千の守備軍を攻め、九戸政実一族を滅ぼす」を持ってきたのは、それなりの理由がある。
沢内・古沢家の初代は善兵衛という一介の百姓なのだが、菩提寺の過去帳に「雫石村生まれ」とある。安永二年(1773)に死亡、玄質道了信士の戒名がついている。当然のことながら、雫石村の古沢家のルーツ探しが始まった。
そしてたどり着いたのが、古沢理右衛門義重という人である。墓は雫石町の曹洞宗・広養寺にあった。この人物は一人で雫石村に現れ、寺子屋の師匠となって門弟を数多くかかえているが、死後は一族が忽然と消えていた。墓も門弟が遺したものである。爾来、雫石村には今日に至るまで古沢姓はない。
だが、雫石町史に古沢理右衛門義重の名が残っている。それは「雫石歳代日記」に出てくる。「雫石歳代日記」は、「沢内年代記」と同じように各種の異本が遺されている。
「万用歳代日記 岩持忠兵衛家蔵本」「雫石郷由来記 木村清兵衛家蔵本」「雫石歳代日記 樋口安兵衛家蔵本」「万用歳代記 高橋家所蔵本」「雫石年代記 馬坂家所蔵本」「無題本 安本又四郎家本」「無題本 南学院本」などが、それである。
いずれも原本はなく写本なのだが、「万用歳代日記 岩持忠兵衛家蔵本」の裏表紙に「寛政九丁巳歳六月初旬写之 雫石町理右衛門義重」の署名があった。達筆の筆致である。また岩持忠兵衛家には「南部根元記(二冊本)の写本があるが、その奥書に「寛政八年写之 雫石町古沢義重」と署名してある。岩持忠兵衛家は上野村の肝入役(村長)であった。
この「万用歳代日記」は「天正十九年、此年、古大膳様、九戸左近将監御退治也 太閤秀吉公の御名代として浅野弾正長政・蒲生飛騨守・井伊兵部少輔・長崎軍奉行として石田治部少輔、上使に御退治也」から書き出している。それ以降は「沢内年代記」と同じように村の気候や生活が中心に記述された。
ここから原本の作者は「九戸政実の乱」に格別の思いがあったことが窺われる。古沢理右衛門義重は「九戸軍記」の写本も遺した。木村清兵衛家の「雫石郷由来記」、樋口安兵衛家の「雫石歳代日記」、高橋家所蔵本の「万用歳代記」の書き出しも「九戸政実の乱」である。
「九戸政実の乱」と雫石村の関係は何なのであろうか。
ここで「九戸政実の乱」の概略を述べてみたい。教科書では秀吉の天下統一は小田原の後北条氏の退治で成ったと記述するが、北辺で天下統一の事業を揺るがす大事件が発生している。
九戸(くのへ)氏は南部氏の一族なのだが、九戸政実は武将としての器量に優れ、九戸武家集団は南部家の最強軍団といわれた。天正十四年三月、九戸政実は五〇〇〇の兵力をもって挙兵し、自らが南部家の当主であると公然と自称する。ここまでは南部家のお家騒動といえる。
しかし本家筋の南部信直は、精鋭の九戸勢には勝ち目がないと、秀吉に使者を送り九戸討伐を要請した。北辺の乱で秀吉は驚き、豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍六万が奥州への進軍を開始し九戸城を包囲した。
善戦した九戸政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、出家姿で豊臣秀次に降伏した。秀次の陣へ引き出された政実・実親兄弟らは斬首されたが、さらに城中の女子供を含む九戸一族もことごとく斬殺され、九戸氏は滅亡した。この悲劇を作家・高橋克彦氏は『天を衝く』の小説で、秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実として描いている。
私は九戸城を落ち延びた武家集団の一部が雫石村に隠れ住んだ仮説を立てている。
杜父魚文庫

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