6258 取られた金箔ライター 渡部亮次郎

「中国の人たちはチップとしての金品は絶対受け取りませんからくれぐれも注意してください)と日本外務省報道課の担当官からの注意。
だが、北京に着いたら某社の記者がバスの運転手に金メッキのライターを見せた。運転手、きょろきょろ、辺りを見回した後、すばやくポケットに入れた。「冗談だった、あんたを試したんだよ、返してくれ」、とはいえない。数万円の損害だった。1972年9月末、田中訪中同行記者団の失敗談である。
あれが「日中友好」の始まりであり、我々が徹底的な内政干渉を受けることになる「屈辱」の始まりであった。
当時、私は36歳。所謂「角福戦争」で福田赳夫陣営の取材を担当した後、総理官邸入りした角栄番として官邸記者クラブに所属替えになった。妙な人事だった。
角福戦争は、今では莫大な金銭の絡んだ自民党総裁選挙として記録されているが、本質的には共産中国との国交の是非を問う争いで、同時に立候補した三木武夫、大平正芳氏と中曽根康弘は国交再開促進で角栄と協定していた。だから田中は勝利した途端、北京行きの準備にとりかかった。
私は積極派に組みしたくない心境だったが、NHKの官邸サブキャップであってみれば、当然の如く総理同行となった。しかも記者団機ではなく、テレビ代表に資格で総理機への同乗を許可された。
かくて9月25日、北京に着いたところで起きたのがライター事件。「こりゃ建前と本音は違うぞ」との認識は芽生えたものの、彼らを統率する共産党が自ら「友好」を掲げながら、これ程嘘を言い、これ程内政干渉をしてくるとは思わなかった。
上海空港まで見送りにきた周恩来総理が「天皇に宜しく」とまで田中に言ったのだもの、単純な日本人は「日中友好」に酔ってしまったのがいけなかった。
6年後、今度は外務大臣秘書官に発令されて日中平和友好条約の締結交渉に当った。今から考えれば、毛沢東の死後、権力奪回に成功したトウ小平は、早くから経済の改革開放を構想し、そのためには日本の資金と技術に依存する以外に途は無いと覚悟していた。
日本は急ぐことは無かったのだ。それなのに条約の締結がソ連(当時)の妨害工作で遷延していたものだから、福田総理が助平心を起こして早期締結に走る外相園田を敢えて止めなかった。
すべては後の祭りだが、園田こそは「黒衣」を早くに放って、周辺の動きを掌握していたのだから、情報を独占せず、格別慎重に対処すべきだった。(文中敬称略)
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