6275 「沢内年代記」を読み解く(二十七)  高橋繁

天保五年 甲午(キノエウマ・・・1834年の記録) 
【巣郷本の記録】
   ☆作柄は上々の出来  ☆穀物の値下がる 
作柄は上々の出来であった。七月より穀物の値段が下がった。白米は一升(1.5㎏)が二百文(約5,000円)から段々値下がりして、十月頃には六七十文(約1,750円)ほどになった。大豆は一升四十文(約1,000円)くらい、小豆は一升三十四五文(約、875円)籾稗一升十五文(約、375円)くらいになった。
田打ち(耕作)し、田掻きして植えた稲はよかった。耕作せずに直蒔きした稗は悪かった。特に耕作せずに直蒔きした稲(陸稲)はよかった。種籾は少し細身にできたが雪・霰・霜に当たらなかったので良く出来た。
【下巾本の記録】
   ☆山川の草木の根皮松の皮を取り集めて命をつなぐ ☆七月からやっと食にありつく
御代官 花輪八兵衛、中原恵。中原清九郎代わり美濃部作左エ門は正月に着任したが三月には退任した。代わりに四ノ戸久左エ門が着任した。越中畑関所 御番人本堂善六代わり簗田和左エ門が九月着任。
去年巳年(天保四年・1833)の大飢饉で村中の人々に食べ物はなく、持っている者は稀である。夏ごろになるにしたがって飢え死にする者が多くなった。仙台藩に行った者、行く者は数知れない。正月、二月より雪を掘り去り、葛の根を掘り、大ミズの根を掘り、松の皮を剥ぎ取ってこしらえて喰う。雪が消えるにしたがい山、川に毎日入り込み草木の根・皮・を取り集め喰って助かり命をつないでいる。
体が弱り田畑を耕作することの出来ない者が多い。五月の節句過ぎより田植え始まり六月十五日まで続いた。しかし、田を耕すことなく、田掻きもしないで植える者が多かった。(田は直蒔き、畑の陸稲も直蒔きしたと思われる)その後、稗田植えが土用過ぎまであった。粗雑な植え方であったが植えてから十日頃に穂が出た。
早稲は七月下旬より実が入り刈り取る。八月初旬より新米に喰いつく。人々は大喜びをしたことであった。とくに早黍(トウモロコシ)は七月七日ころより喰う。総じて早物類は七月七日ころより喰い始めた。
その前は諸穀物を秋田、黒澤尻より買い越して来た。穀物類は運送料がかかり、同じ値段のはずの米一升(1.5㎏)が二百四十文(約、6,000円)。大豆一升は百二三十文(約、5,750円)。小豆一升百八十文(約、4,500円)。小糠一升三十文(約、750円)。
根花(ワラビ澱粉)一升百三十文(約、3,250円)。ドングリ等の木の実は一升三十文(約、750円)。全ての食料は高値であった。
御上様はもとより余分の物がある者は、困窮の者に売って食べさせるように仰せ付けられた。米一升は百三十文(約、3,250円)。味噌は百文(約2,500円)で七百匁(1匁は3.75g。700gは2.625㎏)を売り渡して助けるようにと厳しく仰せ付けられた。
気候は春より秋まで照ったり、降ったりで甚だ不順であった。しかし、昼夜とも温暖であったため、田畑は相応に実り、作柄は上々作となった。しかしながら、作物は手に入らず(残らず)、これまでと変わらず重い課税となった。元歩の割合から一歩引きで仰せ付けられお受けした。他に去る辰年(天保三年・1832)引き米の内の百駄は借りていたので上納した。
【白木野本の記録】「中作」の一語だけの記録となっている。《「歴史年表」より・・・幕府、関東諸国に江戸廻米を命ずる。水野忠邦老中となる。江戸町会所、窮民33万4,000人に施米。東蝦夷地ツカフナイに外国人上陸、略奪。ドイツ関税同盟成立。》
天保六年 乙未(キノトヒツジ・・・1835年の記録) 
【巣郷本の記録】
    ☆凶作   ☆仙台城下大洪水
作柄は凶作であった。年貢割合は元歩より七歩引きであった。七月閏あり。閏七月七日仙台城下は大洪水にあい、何千人死んだのか数が分からないということである。     
【下巾本の記録】
   ☆代官病死  ☆収穫高皆無  ☆気候不順続く  ☆他所に行く者多し
七月閏あり。御代官 中原恵代わり中西金左エ門来られたけれども七月に急病、役屋(代官所)で病死された。代わりに豊川脇右エ門、先役の四ノ戸久左エ門。
この年の作柄は下作。去る巳の年(天保四年)と同じであった。沢内の上流地域も下流地域の村々は田畑ともに実らなかった。稲は刈り取られず放置された。したがって実地検査の上、不熟田地は割り引き米三百駄(1駄は7斗、1斗は105㎏。300駄は31.5t)仰せ付けられた。年貢検分の通り不熟となり、収穫高は皆無となった。
気候不順は春から秋まで続き、時々地震があった。五月の田植え過ぎまで照ったり降ったりで安定しなかった。寒冷の風「やませ」がしきりに吹き、七月十四日、十五日には水霜がふった。七月より九月まで降り続き、田畑は残らず不作となった。
年貢割合は去年より八歩引きに仰せ付けられた。御蔵に上納した米は、一升(1.5㎏)につき八十文(約2,000円)で売り下された。小豆一升は七十文(約1,750円)。大豆一升は七十文から四十五文くらいであった。一昨年、去年と同じように他所に行く者が多かった。
【白木野本の記録】「この年も半作」の記録だけである。《「歴史年表」より・・・幕府、天保通宝(百文銭)を鋳造。諸国に国絵図作成を命ずる。鈴木牧之「北越雪譜」初編刊行。この頃、滑稽本、人情本盛んに出る。アメリカ、モールス有線電信機を発明。》
天保七年 丙申(ヒノエサル・・・1836年の記録)
【巣郷本の記録】
   ☆大飢饉  ☆俵探し来る  ☆秋田米南部、仙台買い越し ☆酉松、穀留め役人を撃ち牢死 ☆米一升(1.5㎏)の値段6,000円
大飢饉、田無しとなる(収穫ゼロとなる)。当百銭(天保通宝、天保小判)始めてくる。米上一升の値段は七月頃までは六七十文(約1,500円~1,750円)くらいであった。
十一月初旬に盛岡より蛇口与三兵衛様が役目として足軽を召し連れ、下役高橋求馬様と同心の四人が「俵探し」(食料の家宅捜査)に来た。村中を見廻り、見当たり次第に書き留められた。来年の耕作米も足りないので、年貢等に納め払う米はなかった。
この年、十月二十八日細内村の下山平ら付近の田地の大部分が川となった。(洪水のため田地が川となったと思われるが、洪水の記録はない。)
十二月より次の年明け(天保八年・1837)まで、秋田米が南部、仙台に筏に積んで何万俵買い越してきたか、その数は計り知れない。
八月より酉年(天保八年)の六七月まで秋田から穀留め役人(米穀の他所流出管理役)が、南部、仙台の境口残らず数人ずつ配置された。穀物はもちろんのこと、餅、酒、焼き飯に至るまで取り押さえた。人々が困ったことは数知れない。当村の長右エ門の子供、酉松という者が、秋田の赤坂市重郎という穀留め役人を鉄砲で撃ったため、取り押さえられ秋田城下久保田で牢死した。
酉(1836)正月より米の値段が上がった。二三月は米一升(1.5㎏)が二百文(約5,000円)ぐらいであったが、五六月までには二百四五十文(約6,000円~6,250円)となった。七八月は百七十文(約4,250円)ぐらいとなり、それより段々値は下がった。
【下巾本の記録】
   ☆気候甚だ不順  ☆覚え無き凶作  ☆城下に数万人  
御代官四ノ戸久左エ門、豊川脇右エ門。この年、気候は甚だ不順であった。春より秋まで東より寒冷風「やませ」がしきりに吹き、雨が止まずに降り続いた。ついに沢内は言うまでもなく、南部領内一体、仙台藩共に往古より経験したことのない、田畑共に十分の一も実らない大凶作となった。
秋田領に入り込んだ者は数知れず多かった。米一升の値は二百四五十文。仙台においては金一歩(1両の4分ノ1。1,000文=約25,000円)につき米四升(6㎏)当たり、また五升になった。全て食べ物の値段は高値であった。
秋から冬に至るまで根葛を前々から掘り尽くし、途方にくれた。栃、シダミ、草の葉、木の皮、葉ばかり取り集め、稲は半分以上も刈り取らず放置し、検地も済んだ。
諸上納は大変迷惑し困った。別の方の代官所管内から数万人の人々が城下に集合し願い上げ騒動が起こった。御用金の割り当て取立ては限りなかった。物事片付かず、取り散らしたまま越年する。
【白木野本の記録】
   ☆秋田から米を買い越す  ☆万慶ウド峠で切り殺される ☆道は倒れた人と死に人ばかり
この年大飢饉。白米一升(1.5㎏)二百三四十文(約5,575円~6,000円)。秋田から米を背負い、野山や沢を皆背負って下った。太田村から秋田宇藤村へ通る峠道(宇藤峠か)で下巾村の万慶という者が切り殺され大騒動となった。
この年、道には倒れた人と死んだ人ばかりであった。《「歴史年表」より・・・徳川斉昭,常陸国助川に砲台を築く。ロシア船、漂流民を護送し、択捉島に来航する。甲斐郡内地方で打ちこわし(郡内一揆)。江戸神田に御救い小屋設置。全国で飢饉。奥羽で死者10万人。一揆・打ちこわし頻発。イギリス、経済恐慌(~1901年)》
杜父魚文庫

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