6285 日米防衛摩擦はどう起きたか 古森義久

日米同盟についての古森の連載の第25回の紹介です。内容はレーガン政権時代に日本がアメリカの防衛要請に答えられず、摩擦が起き始めた経緯の体験的な説明です。
■日本の政策決定への疑問
私は緊張しながら話し始めた。「日本政府の防衛問題についての政策決定プロセスで表面だって語られない大きな要因は、ニュースメディアの態度です」自分の言葉が米国連邦議会の記録に残ると思うと、どうしても体が硬くなる。
下院外交委員会のアジア太平洋問題小委員会が議会調査局などの協力を得て開催した公聴会方式の研修会だった。主題は「日本の政府の政策決定=米国にとっての意味」とされていた。
日本政府が防衛と貿易に関していったい、どのように政策を決めるのか、そのプロセスやメカニズムに光を当てることがこの会合の目的だった。日米両方の専門家合計十数人が証人として発言し、議会側はこの小委員会のスティーブン・ソラーズ委員長らが出席していた。証人は私のほかに外務省の岡崎久彦氏、エール大学のヒュー・パトリック教授、米国防大学のジョン・エンディコット教授、元在日米軍司令官のウィリアム・ギン将軍などだった。
1982年3月中旬だった。レーガン政権が発足して1年2カ月の時期である。この時点で下院外交委員会がこうした会合を開くのは、米国にとって日本政府が防衛や貿易に関して決定する政策がきわめて重要となってきたからだった。
貿易面では日本の自動車、電機製品、通信機器、鉄鋼といった品目が米国への輸出を激増させていた。米国産品の日本への輸出は増えず、米側の対日貿易赤字が急増していた。日本製品に押された形で衰退する米国の産業界の意を受けた議員たちは、日本に対し市場の開放や対米輸出の規制を求めていた。
防衛面でも議会は日本が米国の負担による防衛に依存し、そのための貢献はしないという「ただ乗り」への非難を強めていた。私が出た会合のほんの1週間前には、下院本会議が日本の防衛問題についての異例の集中討論会を開いたほどだった。
「日本の防衛費は国民1人当たり年間98ドルなのに、米国では759ドルに達します。同盟国同士としては不公平であり、日本はソ連の脅威に対する対潜能力の強化、弾薬備蓄の増大、在日米軍経費負担の増加を実行すべきです」(共和党ラルフ・レギュラ議員)
「日本の防衛費はGNP(国民総生産)の0・9%、米国は6%、この差額を日本は『防衛のカサ税』として払い、米海軍の太平洋での活動経費にあてるべきです」(共和党ダンカン・ハンター議員)
「日本は西側陣営の一員として防衛に回すべき資金やパワーを自動車産業などの経済活動に投入し、米国に経済進出しています。私の選挙区では失業率は自動車産業を中心に18%に達しました」(民主党ドナルド・ピース議員)
こうした発言が次々に飛び出したのだ。
この背景にはソ連の全世界規模での軍事脅威の拡大という現実があった。ソ連のアフガニスタン全面侵攻以来、カーター政権は日本に防衛費あるいは防衛努力の「着実かつ顕著な増加」を求めるようになった。
日本政府はそれに応じるかのように、1981年度の防衛費の伸びは9・7%とする方針を80年夏の概算要求で示した。ところが年末の最終予算では7・6%となってしまった。自動的に増える人件費の増額を引けば実質は5・4%の伸びだった。この時点では次期大統領はレーガン氏と決まっており、レーガン政権も強い失望を表明したのだった。
議会でも「一度は9・7%と決まった増額が、なぜ実質5・4%まで下がってしまうのか」という疑問が提起された。日本の政府の政策決定の仕組みについての疑問だった。下院外交委員会がこうした研修会を開くことにはそんな背景があったのである。
日本側では米国の期待に応じられない理由として「憲法上の制約」「緊縮財政の制約」「防衛増強への国内コンセンサスの不在」「戦後平和主義の影響」などがあげられていた。
だが私は証人として「メディアの影響」を加え、読売、朝日、毎日という当時の全国紙3紙が、世論の反映というよりも自分たち自身の意見として防衛強化政策には多様な形で反対を述べて、政府にブレーキをかけているという実態を報告したのだった。
杜父魚文庫

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