6300 沖縄の慰霊地と大田海軍中将の決別電報 西村眞悟

二十日に、沖縄那覇の武道館で、「沖縄県民、自由と平和のための国防決起集会、『沖縄防衛決戦』」に出席したことを書いた。
この集会は、午後一時から始まる。そして、私は、集会において、「沖縄防衛」を訴えると共に、その「沖縄防衛」を担うのは、我々日本国民であり、その我々に勇気を与えてくれるのは、かつて沖縄防衛のために身を犠牲にした戦没者・英霊であると述べようと思っていた。
それで、集会の前に、慰霊地に手を会わせたいと思い午前中に南の摩文仁に向かった。
まず最初に訪れたのは、第三十二軍司令部壕であり、司令官牛島満陸軍中将と長参謀長らの自決した壕の入り口である。
そこは、沖縄本島の最南端、碧い大海原に面する切り立った断崖に口を開けた壕であった。自決は、昭和二十年六月二十三日。
碧海に南面する壕のなかで、自決された牛島満陸軍中将ほか英霊に敬礼し、礼拝した。そして、全戦没者を弔う国立沖縄戦没者墓苑の前にて「海ゆかば」を独唱した。
午前九時五十分、摩文仁の丘の参拝を終えた。当日は、敬老の日で休日だったにもかかわらず、慰霊地の丘には私一人だった。
摩文仁の丘から、ひめゆりの塔、白梅の塔そして海軍司令部壕に参った。
ひめゆりの塔も白梅の塔も、初めは壕の横に、小さな五十センチほどの石に「ひめゆり」、「白梅」と刻まれたささやかなものだ。今はその横に、大きな塔が建てられている。
ひめゆりの塔には、多くの人々が訪れていた。観光地のように駐車場があり、その回りに売店もあった。しかし、そこから北東にかなり離れた山のなかの白梅の塔には人は一人もいなかった。
このひめゆり部隊も白梅部隊も、女子高生によって編成され看護婦として負傷兵を看護するなかで、敵の情け容赦のない攻撃によって命を落とした乙女達の部隊だ。
人のいない白梅の塔のある森の中で一人ご冥福を祈った。小さな塔の裏には、元教諭 金城宏吉の署名で「散りてなほ 香りは高し 白梅の花」という和歌が彫られていた。昭和二十二年と印されている。
最後に訪れたのは豊見城にある海軍司令部壕である。ここに海軍は司令部をおいて最後までいた。壕は米軍の艦砲射撃に耐える四百五十メートルの地下陣地で、兵員四千名が収容された。
幕僚室の向かいには通路を挟んで司令官室がある。ここで、昭和二十年六月十三日、大田實海軍中将は幕僚と共に自決された。大田中将は、自決に拳銃を使い、幕僚は手榴弾を使った。幕僚室の壁には爆発した手榴弾の破片が突き刺さった無数の穴がある。合掌した。
この海軍壕に入る際に渡されたパンフレットには沖縄戦による戦没者数が記されていたので、ここに書いておく。全戦没者 二〇〇六五六名、日本側 一八八一三六名、内 他府県出身軍人軍属 六五九〇八名、沖縄出身軍人軍属  二八二二八名、沖縄出身戦闘参加者 五六八六一名、一般沖縄県民(推計)三七一三九名、米軍側 一二五二〇名
以上の通り、二十日の午前中に、私の沖縄激戦地における慰霊の旅を終えた。慰霊地を回って心にズシンと響いたものは、ここで戦い亡くなった人々の存在の重さ、命の重さとでも言おうか、つまり霊気である。
それは、日本は悪かったとか、その悪い日本の犠牲になったというような、戦後誰かに教えられるものではなく、直に霊気から感じるものである。
今からは、想像を絶する事態のなかで、戦うこと、負傷兵を助けることという任務を放棄しなかった英霊の真心、赤心が体の中に突き上げてきた。
昭和二十二年に、金城先生は、白梅部隊で散った教え子のことを「散りてなほ 香りは高し・・・」と歌った。そこには、乙女らの死の崇高さが歌われている。ここには自虐史観、東京裁判史観はない。
海軍壕の出口の売店で、「沖縄戦 衝撃の記録写真集」を買い求めた。あとで開いてみると、本田勝一氏の「中国の日本軍」を参考図書に上げるなど、東京裁判史観によって残虐な掲載写真が選ばれている。その日本の悪の限りの果てに沖縄戦があったという筋書きである。
しかし、沖縄の慰霊地は、これらのイデオロギーを全く寄せ付けない存在の重みがある。そして、屈辱の生よりも栄光の死を選んだ人々の崇高さを湛えている。
この写真集の中に、射殺した看護婦の横たわる死体をのぞき込んでいる米兵の写真がある。豊かな黒髪は地面に広がり、目を虚空に向けて口を少し開いている。しらゆり部隊の女性か白梅部隊の女性か。いずれの県立高女の生徒であろうか。
写真集の解説は、「六月十二日に包帯などの衛生機材や手投げ弾の入ったカバンをもって走り抜けようとして射殺された」、とさも射殺されるのが当然というような書きぶりである。
しかし私は、横たわる彼女の横顔に、先ほど森の中で見てきた「散りてなほ香りは高し・・・」という歌を思った。
 
最後に、全文を読んでいない方もおられると思うので、海軍司令部壕で自決された大田實海軍中将が、その最後に沖縄県民の献身的な行動を海軍次官に書き送った電文の全文を書いておきたい。
各所に不明箇所があり、しかれども伝わってくる電文の格調の高さから考えて、戦いのまさに最後が迫ったなかで書かれたことがうかがえる。
その武人としての生の最後に於いて、大田海軍中将は、沖縄県民のことを何としても後世に伝えねばならないと思い決したのである。これが沖縄戦の実相だ。我々も、これを語り伝えねばならない。
 発 沖縄根拠地隊司令
 宛 海軍次官
 左ノ電文○○次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク 第32軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ依ツテ緊急御通知申上グ
沖縄県ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ 家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃下・・・(不明) 風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹飯婦ハモトヨリ 砲弾運ビ、挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮、敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ 見寄りナキ重傷者ヲ助ケテ・・・(不明)真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ワレズ
更ニ軍ニ於イテ作戦ノ大転換アルヤ自給自足夜ノ中ニ遙ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレテ 御奉公ノ・・・(不明)ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ・・・(不明)コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島実情形・・・(不明)一木一草焦土ト化セン 
糧食6月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
杜父魚文庫

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