6380 多賀谷大名の古沢武将たち 古沢襄

秋の晴れ間を利用して茨城県八千代町川尻にある赤松山不動院に行ってきた。私の家から車で四十分ほどのところ、この地の土豪で後に古沢姓を名乗った赤松家の墓所がある。この十数年、年に二、三度はこの墓所に来て調査を重ねてきた。
調査の目的は二つ。ひとつは私の先祖に繋がると考えている古沢助大夫の墓と家紋を確かめることである。もうひとつは、川尻・赤松氏の祖である権律師・赤松祐弁の出自の調査。
赤松山不動院には江戸時代に建立された「祐弁墓誌銘」が現存している。墓碑銘には祐弁の出自は、播州・赤松氏と刻まれている。播州・赤松氏は元弘の変で護良親王の令旨を奉じて六波羅に攻め入っている。大将は赤松円心則村。後醍醐天皇はこの恩賞として赤松円心則村に播磨守護職を与えている。
祐弁は赤松円心則村が曾祖父だと自称している。(不動院縁起)
「常州下妻城主多賀谷修理家中諸士」(関城町の西村市郎兵衛家所蔵)という古記録がある。そこに川尻・赤松氏の一族で三百石以上の上士が出ている。八百五十石・古沢助大夫、五百石・古沢隼人、四百五十石・古沢新右衛門、三百石・古沢大膳、三百石・古沢佐渡、三百石・古沢弾正の順である。
赤松山不動院にある「祐弁墓誌銘」は、赤松新右衛門正範が江戸時代末期に先祖の供養のために刻んだものとされている。
話は飛ぶが、川尻・赤松氏が古沢姓になったのは何故か。
祐弁の系譜から赤松民部祐房と赤松美濃季範の武将が出ている。赤松美濃季範の子・祐俊の代に多賀谷大名に仕えた。さらに一代置いて赤松美濃常範の時に多賀谷氏の居城・下妻城が小田原の後北条氏の軍勢によって囲まれた。多賀谷政経は赤松美濃常範に命じて、下妻古沢村で後北条軍と戦わせた。
その一方で、盟約を結んでいた佐竹義宣に応援の馬を走らせている。常範軍は佐竹軍が駆けつけるまでの時間稼ぎだったろう。しかし常範軍は奮戦して佐竹軍が駆けつける前に後北条勢を壊滅させた。赤松美濃常範の武名はあがり、世人は「赤松が左文字の刀ふりければ、皆くれないに、古沢の水」と囃し立てた。
この軍功によって赤松美濃常範は改姓して古沢美濃常範に改めた。元亀二年(1571)のことであった。しかし多賀谷大名が徳川家康によって滅ぼされ、古沢武将の多くは土着して農民になっている。これ以降、古沢姓から赤松姓に戻る者も出た。
赤松山不動院に行くと赤松宗家の墓所を囲むように一族の墓が林立している。宗家は「九曜」の家紋を用いた。八千代町の「歴史民俗資料館」に展示されている兜には、中央の大丸を囲んで八つの丸がつく九曜家紋が、兜の額部分についている。赤松美濃常範が着用したものであろう。
「九曜」は「九星」とも言い、平良文を祖とする関東の武将・千葉氏も用いた。千葉氏は妙見菩薩を守り神としたが、妙見は星の形で表現され、妙見菩薩は天体の運行をつかさどる神とされた。播州・赤松宗家は左巻きの巴紋。一族でも「九曜」家紋は見当たらない。
川尻・赤松宗家の墓所をを囲む様にして、赤松家と古沢家の墓が林立しているが、一族の墓に刻まれた家紋は「上り藤」と「丸に蔦」家紋の二つ。私は明治以降に建てられた墓には興味がない。もっぱら江戸時代の墓を探すのだが、風雪に洗われて墓碑銘を読むのに苦労する。
「常州下妻城主多賀谷修理家中諸士」に出てくる三百石以上の古沢武将は、宗家の「四百五十石・古沢新右衛門」家以外はまだ発見できない。
それには理由がある。土着しなかった古沢武将は、多賀谷宣家(佐竹義宣の弟)に従って僅か四〇人程度だったが、秋田県の能代城に赴いている。この中に梅津政景日記に出てくる古沢助丞がいる。「八百五十石・古沢助大夫」の末裔であろう。この能代城も幕命によって間もなく破却され、多賀谷宣家の家臣の多くは土着して農民になった。
土着しなかった古沢武将の中には、多賀谷三経に従って越前国北ノ庄に行った者もいる。多賀谷三経は嫡男でありながら、佐竹家との姻戚関係を強めるために父親によって廃嫡され、鬼怒川西岸の出城に追いやられた。反発した三経は徳川家康の次男である結城秀康に心を寄せる様になる。
秀康は関ヶ原の合戦で西に赴いた家康の名代として関東の押さえの総大将になって、佐竹・多賀谷軍団の動きを封じた。関ヶ原の合戦後は、越前国北ノ庄藩(福井藩)の初代藩主、越前松平家宗家の初代となったが、三経は越前松平家の家老になって、鬼怒川西岸にあった古沢武将は越前に赴いている。徳川の世となったのだから、土着して農民になる者はいなかったと思う。「五百石・古沢隼人、三百石・古沢大膳、三百石・古沢佐渡、三百石・古沢弾正」の末裔は武家として名を残したのではないか。
杜父魚文庫

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