6396 日本の防衛論議はむなしい 古森義久

■日本の憲法の制約
日米同盟にからむ防衛問題を調べ、考えていくうちに、どうにもむなしい思いを感じる自分に気づくようになった。その理由は簡単にいえば、1982年5月、鈴木善幸首相がレーガン大統領と「日米間の防衛協力の強化」に合意した共同声明にサインした後、すぐ「日米同盟に軍事的側面はない」と発言した事実に象徴されていた。
同盟といえば共同防衛の誓いだから軍事である。日本以外の国でなら自明の基本だった。だが日本では防衛とか軍事という言葉にまず強い忌避があり、「国を守る」という概念を頭から認めない傾向が強かった。なにしろ、いまなら鳩山由紀夫前首相までが認める「抑止力」でも、その言葉を口にするだけで、軍国主義者呼ばわりされる風潮があったのだ。
防衛の必要をある程度は認めても、いざ実際の防衛努力となると、「戦力の保持」や「武力の行使」を全面禁止する憲法第9条の文言が大きな壁となった。要するに同盟相手の米国とは白と黒、天と地ほどの巨大な差異が防衛という概念自体に関して存在したのだ。日本側ではだからこそ鈴木氏のような言明が出てきたのである。
だから日米同盟では共同防衛を増強するには両国間の深い断層のような思考の違いを覆い隠し、棚に上げる必要があった。とくに日本側では憲法上の制約をかわし、くぐる作業に精力が費やされた。防衛政策論といっても防衛をどうするかよりも、憲法から派生する禁忌(きんき)をどうくぐり抜けるかが議論の主体となった。そのくぐり抜けのためには、ときには不可解な禅問答もあったし、明白なウソとしか呼べない虚構もあった。
私が直面した大きな虚構はまずライシャワー氏が指摘した日本の非核三原則の「持ち込ませず」だった。日本政府はその後も「日本の領海や港に米国の核は持ち込まれていない」というフィクションを保ち続けた。日本にとっての核抑止という安全保障の支柱に関して、そんなウソが横行するなら、もう日本の防衛という課題自体をまともに考えることも、むなしいと思うようにさえなった。
1981年2月はじめからの6週間、カーネギー国際平和財団上級研究員としての私は東京に滞在し、日本の防衛問題の調査にあたった。日本の防衛のあり方について各界有識者の意見を克明に聞いた。自民、社会、民社など各政党で防衛政策にかかわる主要議員、自衛隊や安保関連研究所の幹部、大学、財界、言論界で防衛問題にかかわる代表たちだった。インタビューの相手は100人を超えた。
その体験で実感したのはまず、防衛や安保を専門とする人たちを含めて日本側の識者たちの意見には具体性がほとんどないという点だった。防衛力の増強に賛成する人も、反対する人も、では具体的にどんな防衛の態勢や規模、構成、そして政策や戦略を取るべきかとなると、明確な提案がないのである。
この点、5年後、10年後の防衛費額から主要兵器の保有や配備の規模、戦略の内容までを具体的に語る米側の防衛専門家たちとは白と黒のコントラストだった。なにしろ最大野党が非武装中立を唱えていた日本側では、防衛という概念を肯定するか否定するかから議論が始まるのだった。
当時、スタンフォード大学のダニエル・オキモト教授が発表した日米の防衛専門家の質の比較についての論文はこの対照に関して有益な指針となった。
同論文は日米で防衛や安保の専門家とみなされる各100人を調べ、日本側では米側にくらべ、博士号の保持者、物理学者、抑止を信じる人、自衛隊を含む政府機関で働く人がそれぞれ圧倒的に少ないという結果を報告していた。
要するに日本側では防衛研究といっても観念的な次元にとどまることがほとんどだという実態が明かされていた。
ちなみにこのオキモト氏はいまも駐日米国大使のジョン・ルース氏にきわめて近い非公式な助言役として健在である。
とにかく日本の戦後の足かせが防衛という国家の課題をゆがめ、その主題に正面から取り組むことへの意欲を奪うという現象を私は実感する羽目となったのだった。ただし1982年11月に中曽根康弘氏が首相になると、いくらかはその構図も変わることとはなった。
杜父魚文庫

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