天保十二年 辛丑(カノトフウシ1841年の記録)
【巣郷本の記録】
☆作柄は中作 ☆御用金百五十両
作柄は中作であった。年貢割合は元歩より一歩引きであった。また、御用金(臨時徴収金)は百五十両(約、1,500万円)を仰せ付けられた。この御用金は小割(分割して)として納めることになった。正月閏あり。(「御用金百五十両は小割となる」は個々人に分割され、さらに納入時期も分割納入されたと思われる。)
【下巾本の記録】
☆新町御蔵立替えとなる
御代官 山田喜八郎、本寺惣内。作柄は中作。年貢割合は元歩より一歩引きで仰せつかった。入石(買い入れた米)の値段は一駄(7斗・105㎏)二貫八百文(約、7万円)であった。新町の御蔵(年貢米の収納庫)が建替えとなった。棚木も建替えとなった。
【白木野本の記録】
「作柄は上作」とある。
【草井沢本の記録】なし。《「歴史年表」より・・・幕府、天保の改革に着手。中浜万次郎、太平洋を漂流し、アメリカ捕鯨船に救われる。株仲間解散。イギリス、香港を占有する。「盛岡郷土略年表」によれば、「盛岡藩領内に流入した悪銭(仙台角銭)の通用を禁止する。」とある。》
【天保十三年 壬寅(ミズノエトラ)の記録】
【巣郷本の記録】
☆御用金増える ☆南部吉兵衛の御知行地となる
作柄は中作。年貢割合は元歩に一歩増した割合であった。年貢とは別に春は九十両(1両は約10万円とすれば900万円)。秋には百三十両(約1,300万円)の御用金を仰せ付けられた。
この年より、沢内通りは南部吉兵衛様の御知行地(家禄・給料を納める地)となった。(南部吉兵衛は南部藩の重臣の一人。九戸政実の弟の子孫である。天正19年(1591)九戸政実が南部信直に挙兵、信直は秀吉に援軍を乞い、秀吉は蒲生氏郷、浅野長政を先頭に九万の中央軍を指し向け鎮圧した。その中央軍の案内役をしたのが九戸政実の実弟で、信直の家臣となっていた中野修理であった。中野修理は盛岡中野に居城した。
九戸政実の乱が起こる前年天正18年、南部の家臣であった大浦為信が謀反を起こし独立した。津軽はことごとく為信の領有となった。それに対して秀吉は本領安堵の朱印を贈った。南部氏は膨大な領地を失った。「九戸政実の乱」後、秀吉はその代償として志和・和賀・稗貫の三郡を信直に賜る。志和はかって南部氏の南下に対抗し戦った斯波氏(管領)の地であったが、その地を見事に治めたのが中野修理であったと言われる。その子孫が南部吉兵衛である。)
【下巾本の記録】
作柄は上作。年貢割合は元歩より一歩増しを仰せ付けられた。御代官 寺本惣内、望月周之助。この年、南部吉兵衛の本御知行は沢内全体の全生産高の通りとなった。しかし、沢内通りの六百五十石は他家臣との取替え地となった。御勘定方役人と二人の代官が検地し確認された。受取り役人は河村数右エ門、大里武助、村中門兵衛で確認認証された。
水沢銅山(現・北上市和賀町)に三百駄(1駄は7斗、105㎏、三百駄は31.5t)を送る。ただし、米相場は一駄について一貫三百文(約、32,500円)、大豆二十文(約、500円)、小豆二十文。現物で送ることができなかった場合は、金銭を送ったと思われる。沢内通りへ御用金(臨時費用、税金)三百五十両(約3,500万円)仰せ付けられた。
【白木野本の記録】
「中作」(作柄は中作)としか記録されていない。
【草井沢本】
記録はなし。 《「歴史年表」より・・・幕府、異国船打払令を改め、薪水食料の供与を許可。高島秋帆を投獄。清国とイギリス南京条約締結。》
天保十四年 癸卯(ミズノトウ・・・1843年の記録)
【巣郷本の記録】
☆臨時賦課金に困窮
年貢割合は元歩に一歩増しであった。春に百二十両(約、1,200万円)を仰せ付けられた。臨時の賦課金である。九月には百五十両(約、1,500円)仰せ付けられたが、納めることができず卯年(今年)の十一月から申年(弘化五年・1848)までの五ヵ年間に納めることになった。一年当たり十七八貫(約42.5万円~45万円)より三十四五文(約、850円~875円)まで納めることになった。水呑みの貧農にいたるまで家ごとに月賦で納めるよう仰せつかった。村人は迷惑し、困窮した。
【下巾本の記録】
☆湯田村肝入代わる ☆ほうき星出る ☆総生産高調査 ☆大地震 ☆年三度の御用金 ☆穀物値下がり困窮する
御代官 寺本惣内、望月周之助代わり金田一進。この年、湯田村の肝入である理左エ門が三十二年間勤めたので退任した。その後任には息子の伊右エ門がなった。
去年の十二月には雪が降らなかったが、春は大雪が降り、二月初めには雷がなり、荒天が二度もあった。二月十九日の夜より西の空にほうき星が出た。この星の光は金色で、光の周辺には紫雲がたなびいている。毎夜現れるのは不思議である。
総高(総生産高)調査の役人が三月盛岡を出発、雫石を調査し、三月中旬頃沢内に入り、湯本を本拠地にして調査した。六月七日午後六時頃大地震があった。所々崩落があり、家や家財が損傷した。土地は盛り上がり崩れ、恐ろしいことであった。七日より十三日まで少しずつ震れ、止まらなかった。(震源、地震地域等不明)
八月「盛岡御陣備有」(「南部史要」によれば、藩主利済公は九月十一日城下茨島において異国人との対戦を想定した大軍事演習を実施している。家老はじめ家臣団総出である。原敬の父祖と思われる原直記の名も見える。このことを指していると思われる)その費用として沢内通りに千五百五十両(約、15,500万円)仰せつかった。五ヵ年にわたって二百三十両(約2,300万円)ずつ、一ヶ月いくらと月割りにして上納することになった。
この上納金が済まぬ七月十五日に二百六十両(約2,600万円)、さらに九十両(約9,000万円)の繰合金を仰せ付けられた。一ヵ年に三度も上納金を割り当てられ、百姓共一同、迷惑困窮すること限りなし。
作柄は上々作であった。年貢割合は元歩より一歩増しとなった。入石(買い入れた米)の値段は一駄(七斗・105㎏)二貫文(約5万円)、大豆小豆は一升十四五文(約350円~375円)くらいで、総じて穀物が値下がりし百姓共は困窮した。
【白木野本の記録】・・・「中作」とだけ記録されている。《「歴史年表」より・・・幕府、江戸人別帳にない百姓に帰村を命ずる。六月幕府、江戸・大阪10里四方上知令(土地をお上に返納する)を発布、閏九月に撤回。老中水野忠邦を罷免。清国で広州、上海など開港。》
天保十五年 甲辰(キノエタツ・・・1844年の記録)
【巣郷本の記録】
☆作柄中作 ☆贋金捜索役人来る ☆沢内通りの「霞」
作柄は中作。大豆・小豆の作柄は下の下で、小豆一升は五十文(約1,250円)。大豆は一升四十文(約1,000円)ぐらい。米一升は三十七八文(約920円~950円)ぐらいであった。年貢割合は元歩より一歩引きであった。
去る卯年(天保14年)に贋金造りがあったというので、捜索のため工藤乙之助が助手を四五人連れてきた。湯川の万左エ門、白木野の長七は逃げて行方不明となった。書状の作成提出等、親類の者たちは大変迷惑した。
沢内通りの「霞」(「霞」とは修験者の布教の範囲で、ある修験者が許可を得た地域において祈祷やお礼の配布をおこなった。その布教の範囲を「霞」といった。-南部盛岡藩辞典―)天王院(湯殿山の一院と思われる)は七月十六日中村の助右エ門宅で召し捕らえられた。理由は記録されていないが、無理な言動があったためと思われる。沢内通りの修験、太田の信定院は川舟郷の霞となった。大膳院は新町郷、花福院は湯田郷、不動院は新田郷の霞となった。
【下巾本の記録】
☆代官代わる ☆碧祥寺庫裏改築 ☆大日照り灌漑用水順番使用 ☆改元あり「弘化」となる
御代官 寺本惣内代わり阿部忠七、金田一進代わり矢幅九右エ門。作柄は中作。年貢割合は去年の二歩引きとなった。入石(買い入れ米)一駄(七斗・105㎏)三貫百文(約77,500円)。大豆一升は二十三文(約575円)。小豆一升は二十八文(約700円)であった。御引き米(割引米)を百駄お願いしたところ、願い通りになった。
太田村碧祥寺の庫裏が改築された。この年、大日照りのため年貢の基礎となる田には、灌漑用水を順番に使用した。この年、改元あって「弘化」となった。
【白木野本の記録】「中作」(改元)とだけ記録されている。《「歴史年表」より・・・フランス船、琉球に来航して通商を求める。水野忠邦、老中再任。清国とアメリカ望廈条約。清国とフランス黄埔条約。》
弘化二年 乙巳(キノトミ・・・1845年の記録)
【巣郷本の記録】
☆白木山(峠)でフキダオレ ☆横手大火事 ☆新町加藤清作様火事
年貢割合は元歩より一歩引きであった。正月二十二日、秋田角間川(現、秋田県大仙市)の者、六人が参宮に行く途中、白木山(峠)で吹雪に合い凍死した。(豪雪の中、吹雪に合い死ぬ人が多かった。このことを西和賀では吹雪倒「フキダオレ」という。)
四月二十日夜、秋田横手の大町、四日町は火事で残らず焼けた。十一月三十日、新町加藤清作様にて火事があり、馬六頭、犬一匹、鶏七羽、猫二匹、生き物全て十五匹が焼け死んだ。
【下幅本の記録】
☆作柄中下の下 ☆ヤマセと日照りで不作、種無し
作柄は中下の下作。御代官 矢幅九右エ門、阿部忠七。年貢割合は元歩より六歩引きとなった。大凶の東風ヤマセがしきりに吹き、大日照りで作物はやけ死んだ。田畑は干上がってしまった。沢内は上流地域も下流地域も種なしとなった。
【白木野本の記録】
☆御用金の割当内容
作柄は中作。原文「此年所々ツボ割、此年より百年前当年より?年ニ取立上納被仰付候共、願上候。」の「ツボ割」は田のひび割れか、「つぼ銭・宅地税の割当」なのか不明。省略が多く読み取ることができなかった。
天保十四年卯年の十二月お上様の御用金が月割りにして仰せ付けられた。沢内中に千二百両(約1,2000万円)仰せつかった。五ヵ年で取り立てるとのことであった。徳助三貫五百文(約97,500円)。武右エ門一貫八百文(約45,000円)長七四貫五百文(約112,500円)。儀七一貫二百文(約30,000円)。長九郎三貫文(約75,000円)。長蔵三貫文(約75,000円)。《「歴史年表」より・・・幕府、オランダの開国勧告を拒否。海防掛を設置。イギリス、上海に租界開設。 「盛岡郷土略年表」より・・・三月、三浦武四郎、岩手山登山する。》
弘化三年 丙午(ヒノエウマ・・・1846年の記録)
【巣郷本の記録】
☆作柄上作 ☆御用金、年三度割り当てられる
五月閏あり。作柄は上作であった。秋上げ(稲作が不良のため米価が高くなること)は当分なかった。
二月五十両(約500万円)、六月百八十両(約1,800万円)、十一月には二百三十両(約2,300万円)合わせて三度も御用金が割り当てられた。《「歴史年表」より・・・幕府、異国船打払令復活。閏五月アメリカ東インド艦隊指令長官ビッドル、浦賀に来航し、通商を要求。アメリカ・メキシコ戦争(~1848年)。 「盛岡郷土略年表」より・・・肥前唐津その他より陶工六人を雇い入れ、盛岡鼻子で陶器を製造させる。》
杜父魚文庫
6446 「沢内年代記」を読み解く(二十九) 高橋繁

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