とうとう、と言うべきか、おかげで、と言うべきか、先週、後期高齢者の仲間入りを果たした。仲間が大勢いるのだから、改めて書くほどのことではないが、ただ、二年前、後期高齢者医療制度が実施されたころ、〈後期〉という言葉の切り捨て、差別的な響きに腹を立て噛みついた記憶が、私にある。
しかし、いまになってみると、一貫性のないことではあるが、この言葉も案外悪くない。年齢的なけじめを自覚させてくれる。古稀(七十歳)と傘寿(八十歳)の間に世を去る人は少なくないから、その中間点の七十五歳を通過することにいかなる意味があるのか。
むずかしいことを考えても仕方ないが、最近もっとも愕然としたのは、四十三歳のエリート検事が証拠品を改ざんして逮捕された事件だった。この検事が生まれた一九六七年という年、日本はベトナム特需でわき、テレビ受信契約数が二千万を突破。〈核家族〉という呼び方が広まった。繁栄の坂を駆けのぼる一方、社会は変質を遂げようとしていた。
当時、私は三十二歳、幼い男子が二人いた。だが、父親としてどんな教育をしたか、まったく記憶にない。ないというより、多分、何を教えることもなく、学校に任せていた。〈民主主義と平等〉という新たな戦後規範以上の教育ルールはない、と単純に錯覚して、日々を送っていたように思う。
エリート検事がどんな育ち方をしたかは知る由もないが、今回の逮捕はあの時代状況と無縁でない。日本社会全体がおかしくなり始めていた。そのことに盲目だったのは、〈後期〉世代の痛切な悔恨である。そして、今日まで何の手も施されていない。
話は一転するが、先日、国際弁護士でユダヤ教徒の石角完爾さんの話を聞く機会があった。いっぷう変わった経歴の持ち主である。ユダヤ人に助けられたことからユダヤ教への改宗を思い立ち、約五年間に及ぶ学習と難関の試験、割礼手術(陰茎包皮の切開・除去)、土葬の決心などを経て、二〇〇七年、六十歳で改宗、ユダヤ人になった。国籍はまだ日本だが、いつでもイスラエル国籍になれるという。
「東京には日本人からユダヤ人になった人が百人くらいいる。ほとんどはユダヤ人男性と結婚した女性で、男性は私一人じゃないか」と石角さんは言う。
しかし、日本人は選民意識の強いユダヤ人にあまりいい印象を抱いていない。シェイクスピアの戯曲『ベニスの商人』に登場する守銭奴の金貸し、シャイロックを思い描く人が少なくない。一方、キリスト教とイスラム教から迫害されながらもこの民族は滅びなかった。世界の人口六十九億人のなかで、千五百万人しかいないが、ノーベル賞受賞者の三割を占めてきた。
◇民主主義と平等の陰で忘れられた一対一教育
ユダヤ人が科学、経済、芸術などの分野で知的貢献をしてきたことは間違いない。アメリカの有力紙が二〇世紀に影響を与えた〈三大偉人〉を選んだことがある。選ばれたのは、『資本論』を著した経済学者のカール・マルクス、精神分析学を確立した心理学者のジークムント・フロイト、相対性理論を提唱した物理学者のアルバート・アインシュタイン、三人ともユダヤ人だった。
また、ノーベル平和賞を受賞したヘンリー・キッシンジャー元米国務長官、『ワシントン・ポスト』紙のキャサリン・グラハム元社長など、政界、メディア界、映画、音楽など広い分野でもユダヤ人が重きをなしている。だが、なぜユダヤ人が優秀なのかがわからない。
石角さんは、「厳しい戒律、作法などがあってはじめて心の自由がある……」
などと民族の優越性をもたらしたものをビデオを交え、懸命に説明したが、もうひとつピンとこない。だが、次の石角さんの発言は、十分に耳を傾けるに値した。
「ユダヤ教はひと言で言えば子育て教なんですよ。人類史上初めて義務教育を採用したのもユダヤ人です。百五十人いれば必ず学校を作る。しかし、一クラス五十人なんていうのではない。
一対一の議論教育です。一対一は子供と母親でやるのが基本です。父親は外で働くから忙しい。まず議論がある。答えは時代によって変わる。真理は一つではない。いまの日本には詰め込み教育しかない。母親は子供を車で塾に送っていって終わりでしょう」
改めて気づくのだが、私が小学生だった戦前、日本にも一対一による親子の向かい合いがあった。それが教育に値するのか、しつけレベルのことか、各人各様と思われるが、戦後は次第に一対一関係が薄れ、いまは皆無に近い。私は石角さんに問うた。
「母親と子供の一対一教育のベースになるのは何ですか」
「ヘブライ聖書、あなた方が旧約聖書と呼んでいるものです」
「では、母親は聖書を十分マスターしているのですか」
「そうです。たえず勉強している。私も毎日少しずつ、一年かけて全部読み終える。それを毎年繰り返している。奥が深いですから」
ヘブライ聖書には〈十戒〉と称するユダヤ人の戒律が記されている。中身は▽あなたは父と母を敬え▽あなたは殺してはならない▽あなたは姦淫してはならない▽あなたは盗んではならない▽あなたは隣人のものを欲しがってはならない─などだ。
ある大学教授が石角さんに、「十戒は当たり前のことを書いてレベルが低い。それに比べると日本は素晴らしい。聖徳太子の十七条憲法は〈和を以って貴しとなす〉と高尚なことを書いている」
と批判したという。しかし、石角さんによると、ユダヤ人は十戒を何千年も議論し、〈殺してはならない〉の意味を深く考え続けてきた。それが一対一教育を実りあるものにし、知的レベルを高めてきたという。わかるような気がする。
確かに、〈和を以って……〉は立派な教えに違いないが、日本の親が日常的に子供に対してこの言葉を教える場面があるだろうか。まずもって〈一対一教育〉の習慣が貴重だ。この点だけは、ユダヤ教に学ぶ値打ちがある、と〈後期〉は考える。(サンデー毎日)
杜父魚文庫
6456 なぜエリート検事が逮捕されたか 岩見隆夫

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