6495 帝国陸軍将校の帰天 西村眞悟

陸軍士官学校第五十六期生、終戦時、陸軍歩兵大尉・米田政次郎氏が天に帰られ、十月十八日お別れした。堺市中区東山のご出身、享年八十八歳。
米田氏は、最後まで帝国陸軍将校としての意識を堅持されて生き抜かれた。その姿勢は背筋を伸ばし毅然としたものであった。若い頃から、軍人として鍛えた人は違うなー、と何時も感銘を受けた。
米田氏と初めて会ったのは、十年以上前に東京の議員会館に時勢を憂うるお手紙を頂き、返事を書いてお伺いした時だった。
その後、中国共産党が、中国大陸に日本軍が七十万発の毒ガス弾を地中に埋めたまま放置していると主張し、時の村山総理と河野外務大臣のコンビが、全て日本の費用で処理すると約束する事態が起こった。
そのとき、米田政次郎氏は、日本陸軍の支那派遣軍が保有していた砲弾数を指摘し、日本軍が毒ガス弾を七十万発も保有していたはずがないと説明された。
支那に派遣された日本陸軍の保有砲弾は、一個師団一会戦で四千五百発である、と氏は説明されたのである。私は、この事実を指摘していただいただけで、中国共産党の言う、日本軍が七十万発の毒ガス弾を保有していたというのが嘘だと分かった。
日本軍は、もっとも増強された時でも、通常の砲弾を七十万発は保有していない。ましておや、一個師団四千五百発の限られた砲弾数の内に毒ガス弾を保有するゆとりなどなかったのではないか。
仮に、各師団が保有弾数の一パーセントの毒ガス弾を保有していたとして、一個師団四十五発の毒ガス弾の保有となる。その毒ガス弾が中共の言うように総数七十万発になるならば、この七十万発の百倍の通常砲弾を保有する日本陸軍の火力を以ってすれば、我が軍はモスクワまで制圧し得たほどの戦力を保持していたことになる。
各家庭から金目のものを供出させ、寺の鐘や各地の銅像を鋳つぶして砲弾や大砲を作っていた日本に、そのような膨大な数の砲弾を保有できるはずがない。
米田政次郎氏から、このことを聴いたとき、子供の頃に南京攻略戦に従軍した方から聴いたことを思いだした。それは、日本軍は、撃った弾の薬莢を拾って前進するように指示されていたということだ。金属の欠乏に悩む日本軍は、薬莢を拾いながら戦っていたのだった。
貧しい軍隊だったのだなー、と子供心に思った。現在の自衛隊も、演習の時、撃った弾の薬莢を一つも違わず回収しているという。このことを知ったとき、昔も今も、伝統は一貫している、と思う。
その自衛隊と時に合同演習をするアメリカ軍は、アホみたいにむやみに撃ちまくって薬莢の山を放置して動きまわる。これも昔から一貫しているらしい。
そこで、その昔も今も物量豊かなアメリカ軍が、三ヶ月以上にわたって「鉄の暴風雨」と言われる膨大な砲弾の雨を降らした沖縄戦で何発の砲弾を撃ち込んできたのか。
それは、六万発である。それでも六万発である。
日本軍は、中国戦線において連日砲弾を撃ちまくる会戦は、一度もしていない。多くは、追えば逃げ、引けば押してくる敵の姿が見えないゲリラ戦である。このような相手に対して使えもしない毒ガス弾を七十万発も持って移動するような馬鹿な軍隊がどこにあるのか。
以上のように、中国共産党の嘘を見抜けず、言われるままに、中国共産党が埋めた各国の毒ガス弾を一兆円以上の金を使って処理しているのが今の日本である。
この嘘を、たった一言で指摘していただいたのが、米田政次郎さんだった。軍事常識のない政治家が決める方策では、国策を誤るのだ。米田さんが、私にそれを教えてくださったのだ。
その他、米田さんの言はれたことで印象に残ったことを一つ付け加えておく。特に、天安門事件以降の中国が、朝から晩まで、日本軍から受けた被害を言いつのるので、米田さんは、ある日言った。
「それほど、あることないこと、過去を持ち出すのならば、支那が俺から奪った家伝の刀、備前長宗を返せ」・・・また、残り少ない軍人としての雰囲気を湛えた方が天に帰られた。
心から、ご冥福を祈り、また、その心意気、受け継がせていただきます、とつぶやきながら、十八日昼、棺をお見送りした。
また、思い返すと、つくづく自分は不明だったと思う。二十世紀の我が国の歩み、大東亜戦争という未曾有の経験を直接体験してきた方からの貴重な教訓を聴くことなくむざむざ過ごしてしまった、としきりに思う。
 私は、昭和四十年代前半に二十歳を迎えている。振り返れば、そのときにもっと「しっかり」しておれば、生きた歴史の教訓に接することができたのにと思う。
しかし、私の昭和四十年代は、何をしていたのか、ぼーっとしていた。山をうろついたり、ただ流れ去った。後に、ああそうだったのか、あのときまだ生きておられたのか、話を聞こうと思えば聞けたのか、と振り返った方々は、例えば次の方々だった。
明治三十五年(一九〇二年)の八甲田山雪中行軍に参加した青森第五連隊二一〇名の内、生き残った十一名のなかの最後の人である小原忠三郎さんが、九十一歳で亡くなったのは、昭和四十五年。
ジャワの第十六軍司令官そしてラバウルの第八方面軍司令官今村均大将は、昭和四十三年に亡くなっている。
今村大将は、戦犯容疑を受けた部下に変わって自ら戦犯として服役し、日本国内ではなく現地マヌス島での服役を申し立てた将軍である。
また、海軍の猛将でありGHQに対しても一歩も引かなかったラバウル方面海軍最高指揮官の草鹿任一中将は、昭和四十七年まで健在だった。
さらに、沖縄戦でもっともアメリカ軍を悩ましたまことに優秀な参謀八原博通大佐は、昭和五十六年に亡くなられている。その他、言い出せばきりがない。不明な私は、政治に最も必要な民族の経験に基づく伝承を聞き逃していた。
しかしながら、まことにありがたいことに、米田政次郎さんから、具体的なお教えを頂くことができた。氏を通じてかいま見ることができた大東亜戦争における軍人としての日本人の姿、生涯、忘れ得ない。
葬儀の翌日である本日十九日、高野山南の花園村の山中にて逃げてゆく猪を見ながら植林の下草刈りの作業をし、帰路高野山奥の院前の参道を歩く。
すると、まさに、陸軍士官学校第五十六期生慰霊碑があった。階段を上り慰霊碑前に至り、米田政次郎さんを偲び、記帳し参拝し敬礼させていただいた。
杜父魚文庫

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