6584 「潮目」になるか北海道5区補選 花岡信昭

菅直人首相の存在感が高まらない。その象徴的な事態となったのが、10月24日投開票の衆院北海道5区補選だった。
自民党の重鎮、町村信孝氏が比例北海道ブロック選出議員の立場を捨て、いったん議員辞職して立候補し、民主党新人の中前茂之氏を3万票差で破った。
 小林千代美氏が北海道教組の違法献金事件などで議員辞職したことにともなう補選だ。昨年8月30日投開票の結果と比べてみると、興味深い。
 ・今回の補選(2010年10月24日)
   当選  町村 信孝(自前) 125638
       中前 茂之(民新)  94136
 ・昨年の総選挙(2009年8月30日)
   当選  小林千代美(民新) 182952
       町村 信孝(自前) 151448
町村氏は昨年の衆院総選挙で小選挙区では敗北、惜敗率により比例区で復活当選した。いずれもほぼ3万票差だが、自民と民主が完全に逆転した。
それも、投票率は昨年が76・32%、今回は53・48%と超低率だったから、同じ3万票でも重みが違う。
町村氏は、衆院4期、北海道知事3期、参院2期をつとめた旧内務官僚出身の大物、町村金五氏の子息である。北海道では圧倒的な知名度を誇る。本来は勝って当たり前の選挙だったが、昨年の民主旋風の前にはさしもの町村氏も小選挙区では及ばなかった。
永田町の感覚では、同じ衆院議員バッジでも3種類あるといわれる。
小選挙区で勝った場合は金バッジ、比例復活だと銀バッジ、比例単独の場合は候補名投票ではなく自民党の得票数によりブロック別名簿の上位にランクされた人が議席を得るのだから、銅バッジ扱いだ。
町村氏は自民党の伝統派閥・福田派を継いだ町村派の領袖だ。それが比例復活の銀バッジではなんとも肩身がせまいことになる。
この補選で別の候補を立てる手もあったが、それだと、次期総選挙で町村氏との調整が難しくなる。
このため、町村氏は議員辞職し、背水の陣で臨んだのであった。町村氏の辞職によって、北海道ブロックでは、名簿の次点だった中川昭一氏が死去しているため、その次の今津寛氏が繰り上げ当選となった。
町村氏は、おそらくは初めての本格的な「どぶ板選挙」を展開した。これまではほかの候補の応援で全国を飛び回ることが多かったのである。
町村氏が補選を制したことで、自民党は衆院で1議席増えたことになる。万一、敗北していたら、町村派の後継争いが展開されるところだったが、これも避けることができた。
民主党候補の中前氏は国土交通省出身だ。地域のインフラ整備などを訴えることができる立場であることから、単なる民主ブームには頼らない選挙戦も可能とされていたが、及ばなかった。
小林氏の辞職理由が不祥事だったこともあり、「政治とカネ」の問題がもろに響いたとされる。注目すべきは、この重要な選挙で、菅首相が現地に応援に入らなかったことだ。
「政治とカネ」の問題を中心に、有権者のストレートな攻撃を受けることを避けたと見られてもしかたない。当初から町村氏優勢は伝えられてはいたが、「危うきに近寄らず」では求心力は出てこない。現地入りして声をからしていたら、必死の姿が党内で共感を呼んだのではなかったか。
政治の流れを見ていると、これまでのコラムでも触れたかと思うが、「潮目」というのがある。
たいていは、後になって「ああ、あのとき」と気がつくことが多い。逆にこれを事前に察知できたら、政局カンの鋭さが評価されることになる。
そうした点からすると、今回の北海道5区補選は有力な「潮目」候補といっていいのではないか。たとえ敗北した場合でも、菅首相が現地で精いっぱい奮闘していたら、また違う効果が出ていたのではないかとも思う。国会審議を見ていても、菅首相の存在感の希薄さがどうにも気になってしまう。それをカバーしようとしてか、仙谷由人官房長官の特異な答弁ぶりばかりが浮き彫りにされている。
「尖閣」をめぐる一連の対中外交で「弱腰」批判を受け、「弱腰ではなく柳腰だ」という迷答弁が話題となった。柳腰というのは、たおやかな、なよなよとした細い腰のことで美人の代名詞なのだが、それを承知のうえで誤用し、訂正しようともしない。
かと思うと、関係のないことまで長々と答弁したり、記者会見では新聞の見出しに文句をつけたりもする。仙谷氏は本来はなかなかの苦労人タイプで、党内外のパイプも太い。おそらくは意識的に悪役を演じているのではないか。それによって、菅首相の防波堤になり、問題の所在をぼかし、はぐらかすことが可能になる。
逆にいえば、それだけ菅首相が追い込まれ、党内求心力を失ってきているということでもある。個人的な体験話で申し訳ないが、菅、仙谷両氏とはまったく同じ時期に大学生活を送った。1969年(昭和44年)卒業である。大学は別だが、学生運動真っ盛りの時代であった。団塊の世代の1年ほど前の世代である。
われわれが大学を出る69年初めに東大の安田講堂攻防戦が起きた。当時の学生運動のエポックとなる事件である。安田講堂に立てこもった過激派を機動隊が強制排除したのだが、仙谷氏もその立てこもり部隊の一員であった。
それが在学中に司法試験に合格していたため、機動隊突入前夜に幹部から「われわれは逮捕される。君はわれわれを弁護する側に立ってくれ」と説得され、塀を乗り越えて脱出したとされる。
東大はこの騒動によって69年の卒業生がいない。ほとんど半年か1年遅れての卒業となった。仙谷氏は東大卒の肩書よりも司法試験合格のほうが重要と判断してか、東大中退を選択した。
菅氏は東工大でアジテーターとして活躍した活動家だ。これも以前のコラムで書いたと思うが、当時、取り締まる側にいた佐々淳行氏によれば、「第4列の男」といわれていたという。
デモ隊の3列目までは機動隊とぶつかって逮捕される可能性が強い。4列目にいれば逃げられるのだ。その両氏が40年後に首相と官房長官をつとめている。なにやら、示唆されるものを感じるのである。
あのころのことを思い出すと、われわれの世代は60年安保に「遅れてきた」という意識が強かった。ほんの数年の差で日本の将来を左右する安保改定の激動期に間に合わなかったのである。それを「負い目」のように感じていた時期もあった。
戦後派ではあるが、むしろ安保後の世代「安後派」といってもいい意識である。70年安保世代は60年安保世代とは違って、爆弾闘争や内ゲバを展開するに至るのだが、その両者の狭間の世代であった。
菅氏は社民連、仙谷氏は社会党から政治の道を歩むことになる。
いまは、自民党から旧社会党まで実に幅広い勢力の出身者による民主党の大幹部だが、菅、仙谷両氏の政治スタンスからして、民主党そのものが左派に傾斜していることを慎重に見極めていく必要がある。
中国に対する政治姿勢が、どうもその実態を象徴しているようでもある。
念のために付言しておくが、小沢一郎元代表が大訪中団を率いて胡錦濤国家主席と面会したり、周金平副主席と天皇との会見を強引に設定したりしたのは、自身の政治力誇示の思惑が強い。
アメリカとはぎりぎりの局面に至っても交渉可能だが、中国の場合は常に触っていないとおかしくなるという基本認識がそこにある。
菅、仙谷両氏と小沢氏の対中認識はそうした点で微妙に異なる。そこを注意して見ていく必要がある。
尖閣周辺で海保巡視船に体当たりした中国漁船船長の公務執行妨害事件が、なんとも不可解な経緯をたどったのは、どうやら菅、仙谷両氏の対中観に起因するようだ。
ようやく事件の録画テープが国会に提出されたが、菅、仙谷両氏とも、これを一般公開しようとは考えていない。それも、数時間はあると思われるテープのうち6分間だけだ。早くも「改ざん疑惑」が持ち上がっている。テープを非公開とするのは、中国国内でいかに反日デモが続発しようとも、これ以上、中国側を刺激するのは避けるべきだという考えが先行するためだ。
そこが国内の一般的感覚とのズレとなり、菅政権の存在感の希薄さにもつながっているのではないか。
北海道5区補選の民主敗北は、今後の政治展開をめぐり、多くの側面を提起したように思える。単なる地方の1小選挙区の選挙として片づけてしまうと、先が見えなくなる。
杜父魚文庫

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