前回のエントリの続きというか、単なる思いつきのエントリです。昨日の衆院予算委員会で、みんなの党の柿沢未途氏が、中国船衝突事件のビデオ映像流出について、「犯人だという人を摘発したら、その人は英雄になってしまう」と指摘(渡辺喜美代表と同じ言い回しですね)したところ、仙谷由人官房長官は語気を強めてこう反論しました。
「逮捕された人が英雄になる、そんな風潮があっては絶対にいけない。映像を故意に流したことを褒めそやし、良いことのごとくに言うのは不本意だ。そんな日本社会であってはならない」
なるほど一見もっともですが、逮捕された中国人船長が超法規的に釈放され、事実上、不起訴も決まっていることを思うと、なんだか白々しく感じます。中国人船長は両手でピースサインをして帰国し、中国では英雄扱いされていますし、仙谷氏が同じセリフを中国にも言えるのなら、私も聞く耳を持たないでもないですが(鳩山由紀夫前首相風に)。
もちろん、この件についてはさまざまな意見があることも、私が見逃したり、言及が不十分であったりする部分もあるでしょうが、いただいたコメントやトラックバックがそれを補ってくれている気がします。返事を書けずにいますが、感謝しています。
さて、今回のエントリが「思いつき」だとわざわざ断ったのは、仙谷氏のこのセリフを聴いていて、例によってどうでもいい連想をしてしまったからです。なんだかカントの著書「永遠平和のために」に出てくる「道徳を説く政治家たち」みたいだな、と。はっきり言えば私の混線した働きの悪い脳が生んだこじつけなのですが、カントはこう言っています。
《こうした国家政略をこととするひとびとは、実践を誇りとするが、実はかれらがかかわりあっているのはさまざまな策略であって、かれらが思索をめぐらしているのは、ただ次のこと、つまり現在支配している権力におもねって(自分たちの私的な利益を失わないために)、国民や、できれば全世界も犠牲にするということであって、たとえかれらが熱心に政治にたずさわっていると称しても、そのふるまいはまさしく法律家(立法にたずさわる法律家ではなくて、職業的な法律家)のそれなのである》
…そして、カントは、このような人たちが用いる「詭弁的な格率」についてこう記しています。
《まず実行し、そして正当化せよ。正当化は、行為がなされた後の方が、事前に納得させる根拠を考えたり、またそれに対する反論を待ったりするよりは、はるかに容易に、しかも見事になされる》
《汝が実行したのなら、否定せよ。汝自身が過ちを犯し、たとえばそのために汝の国民が絶望して暴動を起こしたとしても、それが汝の責任であることを否定せよ。そしてむしろ、その責任が臣下の不従順にあると主張せよ》
カントは、その上でこうも述べます。私の妄想的な連想ながら、けっこう今日の菅政権のありようと符合しているのではないかと。こんな上司は持ちたくないという典型のような人であります。
《これらの格率を用いる連中が、不正がひとびとの眼にあまりに明らかではないかと恥ずかしがる、といった事態も生じない。というのも、強大な権力の所有者たちは、一般大衆の判断に対して恥じたりしないし、恥じるとすれば、ほかの権力者に対してだけであって…》
…仙谷氏はまた、同じ柿沢氏の質問に対し、カメラマンが国会の許可を得て傍聴人席から撮影した写真について「盗撮された」と言い放ちました。自分で国会というこれ以上はないという「公の場」で、「厳秘」資料を広げて「流出」させておきながら、なんという言いぐさでしょうか。あきれ果てるしかありませんね。
私も決して他者の品性をうんぬんできるような立派な者ではありませんが、どうしてこう言葉遣いが乱暴というか下品なのか。中国については、漁船にまで妙な敬語を使うし、これで内閣のスポークスマンで「陰の総理」というのも、なんだかなあ。
杜父魚文庫
6644 道徳を説く仙谷氏とカントの言う「詭弁的格率」 阿比留瑠比

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