6730 政治家の人間性が問われ、見透かされる時代 阿比留瑠比

「政治は結果責任」だとよく言われますし、私自身もそれはそうだと思います。理想や動機がいかに立派でも、それを実現できなければ絵に描いた餅であり、国民にとって何の利益もありません。さらに、その理想や動機のデッサン自体が「国というものが何だか分からない」ほど歪み狂ったルーピー氏のような「理念的政治家」が、論外であることはもちろんのことです。
この文脈上で結果責任を強調するあまり、政治家とその施政をどう評価するかにあたって、よく「最低の政治家であっても、国民のためになることをしてくれたならいい」と言われてきました。実際、特に芸術家や学者の世界では、人格的には異常性があり、ナントカと紙一重の人物が、例えようもなく美しい絵画や音楽をものにし、また、素晴らしい科学的実績をあげることは珍しくありません。
いやむしろ、そうしたその人固有の歪み、狂的な部分こそが、こうした分野での成功につながっているところが大きいのでしょう。それはまごうかたなき事実であると考えます。
ただ、最近、菅直人首相や仙谷由人官房長官をはじめ、菅政権の中枢にいる人たちの言動と現在のていたらくを見ていて、人間対人間の勝負であり、国民に語りかけ、説得する能力が問われる政治の世界ではやはり、人間性がもっと重視されていいのではないかと考えています。
インターネットを含むメディアの発達によって、為政者達はその言動を以前のようにベールの向こうに隠すことは不可能となりました。昔であれば、陰で国民をバカにしつつ、人前では「国民の生活が第一」と言ってもなかなかばれなかったかもしれませんが、現在ではそうした卑しい心根はいつか露見します。
また、首相や閣僚、党幹部らの醜い言行、過去発言との矛盾・乖離、国民と社会をバカにしたような振る舞いは、即座に広まると同時に記録され、私たちはことあるごとにそれを確認するという行動様式をとるようになりました。仙谷氏がかつて自民党を批判してたびたび使用した「知らしむべからず、よらしむべし」的な政治は、まったく通用しないと言っていいでしょう。
そして何より、こうした社会の変容は、政治家一人ひとりの人間性を隠しようもなく暴き、白日の下にさらすこととなりました。首相やその政権の卑怯・未練・姑息な体質は、どう表面を言い繕い、前言を撤回して謝罪しようと国民の心に刻み込まれます。政治家にとっては大変な時代でしょうが、これはこれでいいことだと歓迎します。
結論を言うと、今の時代は、国民の信頼に足る人物か、日本を託せる人物かどうか、政治家の人間性こそが問われているのだと思うのです。そして、卑怯と姑息が受肉化したような自由と民主主義の敵、菅氏や仙谷氏は、誰の目にも隠しようがなくなった自らの卑怯と姑息によって今、追い詰められているのだろうと感じます。自業自得というか、定めというか、当然の帰結というか。
仮に菅内閣が倒れ、次の首相が岡田克也幹事長になろうと前原誠司外相になろうと、あるいはまた政権交代があって現在は野党の政治家が首相になろうと、新たな政権はいずれ、構成メンバーの人間性と品格を問われることになるのだろうと思います。そしてそれは不可避の時代の要請なのだろうと愚考する次第です。
つまり、ある程度は人間性も伴い、その点も評価されるような政治家でないと、最初から結果は出せないのだろうと。現在は指導力以前に、人徳の欠片も見当たらない政権ですが。
幸い、こんな政治家にとってはある意味、やりにくい時代であっても、政治家になりたいと希望する人はたくさんいるようですから、是非切磋琢磨、砕身努力して、国民の期待にこたえられるような政治家が出てきてほしいですね。現在のように、政権のトップ連中が国民の軽蔑と嘲笑の対象にしかならないという事態は、(完全には無理でも)早く終わってほしいものです。
  
杜父魚文庫

コメント

  1. noga より:

    英米人の脳裏には、現実の世界があると同時に、非現実の世界観 (world view) がある。
    現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
    現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
    そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。
    真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
    現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
    時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
    話の内容が現実離れしていることに違和感がない。
    現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
    現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
    もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
    自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。
    日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
    それは、日本語には時制がないからである。
    日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
    日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
    現実を現実の外にある理想に導くものではない。
    西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。
    英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
    だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。
    考えがなければ、議論ができない。
    日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
    意思は未来時制の内容である。
    時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。
    物事の決着は、談合により行われる。
    そこには、公言も宣言も必要でない。
    意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
    もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
    和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
    現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。
    究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
    国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
    人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
    序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。
    国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
    これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
    だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
    それでも、日本人は人類のために貢献している。
    だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。
    http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
    http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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