6731 長野県が生んだ田中秀征氏の先見性 古沢襄

桜井よしこ氏が寄稿している「週刊ダイヤモンド」に細川護煕元首相のブレーンだった田中秀征氏も寄稿している。その論は先見性に富んだもので、教えられる事が多い。長野県人だが、この土地から幕末の佐久間象山のような鬼才の兵学者・思想家が生まれている。
私の母の実家は元松代藩士の出で、信州・上田の家には佐久間象山の書額が飾られている。旧制中学の四年間は士族の出である曾祖母・治家の元で寝起きをともして訓育を受けた。曾祖母が怒ると象山の書額の前で火箸で叩かれたので、佐久間象山にはいい想い出がない。
この象山の妻は勝海舟の妹・順。象山は一橋慶喜に招かれて入洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いている。自信過剰な鬼才だったから勝海舟とはソリが合わなかったともいわれる。しかし幕末の第一級の思想家だったのは間違いない。元治元年(1864)に京都の三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎らの手にかかり暗殺されている。
象山のことは、さておき長野県から先見性のある人物が生まれる。田中秀征氏もその一人。まずは次の論評を読んでほしい。今の菅首相の迷走ぶりを早くから見抜いていた。年内にも内閣支持率20%台の危険水域突入が避けられそうもない・・・とAPEC首脳会議の前に予見していた。
<<共同通信が行った11月6日、7日の電話世論調査によると、菅直人内閣の支持率は、前回(10月)の47.6%から32.7%へ、15ポイントも急落した。不支持率は36.6%から48.6%に上昇している。
これは、(1)日中関係への対応、(2)北方領土をめぐる対ロ関係、(3)小沢一郎氏への弱腰、(4)企業・団体献金の受け入れへの転換、(5)TPPへの対応の迷走、(6)尖閣ビデオの流出、など多くの要因によるものだろう。それに、経済成長政策での類似性が際立つ(7)米国民主党の中間選挙での大敗も影響しているだろう。
このままでは、年内にも内閣支持率20%台の危険水域突入が避けられそうもない。こうなることはわかっていたのに、なぜ菅首相は参院選後に辞職しなかったのか。それが残念である。
現在、おそらく菅首相は、13日から横浜で開催されるAPEC首脳会議の成果にすべての望みを託しているのだろう。しかし、これも、さらに支持率を下落させる機会にもなりかねない。
APECで成果を残すために菅首相が認識すべき3つのこと、菅首相には、次の諸点をしっかり認識してこの会議に臨んでほしい。
(1)既に、外交ショーが首相の人気を高めたり、政権浮揚をもたらす時代ではないこと。
昔は、首脳が一同に会する機会が少なく、さらに、日本開催という機会も珍しかった。しかし、1年に何回も首脳会議や首脳会談があり、日本開催も珍しくなくなった今日では、他国の首脳と会談したり、テレビに映ることは日常的。とてもそれだけでは政権浮揚にはつながらない。むしろ、具体的な成果は何か、そしてそれについて日本の首相はどんな役割を果たしたかに厳しい目が注がれる。
(2)首脳会談開催のために媚態を示したり卑屈に見えたりしないように努めてほしい。
特に、中国の胡錦濤主席とロシアのメドベェージェフ大統領との会談は、こちらから卑屈になってまで頼み込むことはない。もしもそれが実現しなくても、国民はその事情をよく理解している。卑屈になって、その上会談が実現しなければ、それこそ世論から見離される。
(3)TPP(環太平洋パートナーシップ協定)への参加問題では、今回の政府方針で自信を持っていい。
政府が決めた基本方針は“迷文”でよくわからないが、参加に前向きな姿勢は滲んでいる。
TPP参加問題は菅首相に解決できることではない。
今回は「参加表明」には至らなかったが、それは当然だ。民主党内での本格的な議論がないまま首相が所信表明演説で「交渉への参加を検討」と突然打ち出したやり方は消費税のときと同じである。ただ、消費税発言は重大な背信行為であったが、今回はそうではない。
首相が基本方針を示して、「参加の方向で進めている」と発言してもよいのではないかと思う。
この問題は、まず菅首相では解決できないだろう。やはり、地方、農村部出身の首相が苦渋の決断をするという決着でしか収拾できない。
東京出身の菅首相が「農業再生を念頭に『国を開く』という重大な基本方針をとりまとめることができた」と叫んでも説得力がない。首相自身の選挙には何もマイナスにならないからだ。
さて、菅内閣が支持率を下落させているのは、同時に国益を目減りさせているということである。今回の尖閣ビデオの流出事件では、国の統治構造が土台から崩れ始めているという印象を持ったのは私だけではないだろう。
その一義的責任は菅首相の人格と能力にあることは言うまでもない。>>
このような卓見が仙谷官房長官ら首相周辺にないことが、今の菅政権の迷走を招いている。
■田中秀征(たなか しゅうせい、1940年9月30日 – )は、長野県出身の日本の政治家。衆議院議員(通算4期)。現在は福山大学経済学部客員教授。郵政民営化支持者。
新党さきがけの理論的指導者。細川内閣で内閣総理大臣特別補佐(1994年1月31日辞任)、第1次橋本内閣で経済企画庁長官(第52代)を務めた。2006年4月から2007年3月まで学習院大学法学部政治学科特別客員教授。小泉純一郎を支持しており、郵政民営化も当然のごとく支持している。
略歴
1940年9月30日、長野県更級郡旧・篠ノ井町(現・長野市篠ノ井)に生まれる。長野県長野高等学校を経て、東京大学文学部を卒業。その後北海道大学法学部に学士入学し、同大学も卒業。東京大学文学部では林健太郎ゼミに所属し、歴史学を専攻した。
政界入り
石橋湛山を理想の政治家として仰ぎ、宇都宮徳馬の推薦で石橋内閣の官房長官を務めていた衆議院議員の石田博英の秘書となる。1972年、第33回衆議院議員総選挙に旧長野1区から無所属で立候補するが、落選。以後、第34回衆議院議員総選挙、第35回衆議院議員総選挙、第36回衆議院議員総選挙に相次いで立候補するが、落選を繰り返した。
1983年の第37回衆議院議員総選挙では、自民党の長老議員であった小坂善太郎を破り、初当選。以後当選3回。自由民主党に入党後は、宏池会(宮澤派)に所属する。宮澤喜一から厚い信任を得ていたが、政治改革が叫ばれるようになると、武村正義らと共にユートピア政治研究会を結成。
1993年6月、武村らとともに自民党を離党し、新党さきがけを結成、党代表代行に就任した。同年の第40回衆議院議員総選挙後、新党さきがけは日本新党と統一会派を構成し、武村が内閣官房長官、鳩山由紀夫が内閣官房副長官に就任。
田中は党代表代行のまま、内閣総理大臣特別補佐に就任し細川首相を支え、「質実国家」のキャッチフレーズを作った。田中は細川内閣を「政治改革特命政権」と位置づけ、政治改革が一応の成立を見た段階での内閣総辞職を細川に勧めていた。
政治改革四法の成立を見届けた後、1994年1月に首相特別補佐を辞任。1996年、自民党・社会党・新党さきがけの連立による第1次橋本内閣で経済企画庁長官に就任し、初入閣。しかし、同年10月の第41回衆議院議員総選挙では現職閣僚ながら新進党候補の小坂憲次に敗れ、落選した。
1996年以降
財政・金融の分離問題での武村との意見の相違から新党さきがけを離党し党友となり、無所属の一国民の立場を貫いている。大学教授として教鞭を執る傍ら、2007年9月より一般を対象とした「田中秀征の民権塾」を主宰している。
エピソード
落選して10年以上経つが未だに地元の支持は根強い。全国配信されている田中のコメントが掲載された共同通信の記事が長野県の地元紙「信濃毎日新聞」では全く掲載されない。この背景には一族が同紙の大株主・創始者であり深い関係にある衆議院議員の小坂憲次が田中と選挙区で重複している為に、小坂に配慮して田中関連の記事を作為的に排除しているのではないのかとの疑念がある。
しかし、近年はテレビの露出、全国各地での講演会などで官僚主導「官権」から国民主導「民権」を訴え続け知名度は全国区となり再待望論が一部にあったが、現在は聞かれなくなった。
2008年5月5日朝日新聞朝刊では、橋本大二郎前高知県知事、江田憲司衆議院議員の2人に助言をしていると報じられている。「今の状況は、既成政党が信頼を失っていた92年~93年の状況と似ている。次の衆院選で自公で過半数が得られなければ何らかの再編がある。少数精鋭で、時代の要請を体現した第3極の出現が必要だ」と述べている。
「一部のメディア」から「政界再編の政治家のひとり」として取り挙げられている。一部週刊誌上でにぎわせた小泉・細川極秘対談を唯一セッティングできる可能性があるのは田中秀征ともいわれ「第三局待望論」「政界再々編」時には政界復帰説が噂される政治家の一人であったが、現在では復帰論は沈静化している。(ウイキペデイア)
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