6767 本質を見ぬ屋山太郎氏   東郷勇策

11月23日付け産経新聞「正論」及び本日の本ブログ2105号への屋山太郎氏の寄稿、「仙谷氏を更迭し新陣容で出直せ」を拝見し、この期に及んでも民主党に期待を繋ぐのは本質を見ていないからであろうと呆れ、失望を禁じ得ません。
明治以来続く官僚支配の打破こそが急務と主張する屋山氏には或る程度の理解と共感を覚えることもありましたが、同氏がその一点に重きを置く余り公務員制度改革や政治主導を掲げる民主党に期待をかけ政権交代を後押ししていたことには、正直なところ、同党の根幹をどう評価しているのかと強い疑問を抱いていました。
選挙対策上の烏合の衆の集合体であり政党としての綱領すら持ち得ず、特に国防・安全保障に関する見解はてんでんばらばらで理念無き存在の民主党に、国家運営を委ねることは到底容認できないと私はかなり以前から判断しており、マスコミを中心に煽られ吹き荒れた政権交代の熱風の中でも、そう主張していたからです。
平和呆けの極致に達し、公の精神を喪失したかの如き私利私欲の追及という精神の劣化が日本列島を覆い、利権に群がる政治家、保身に勤しむ官僚、収益第一主義の経営者が蔓延り、政官業癒着が目立つ退廃の世相に対しては、私も憤懣遣る方ない思いを抱きましたが、自由民主主義に立脚し確固たる国防を担保することが国政を担う資格としての根幹であり必須要件であるとの信念を持っていた私には、政権交代は思慮に欠ける情緒的な選択であると映りました。
立党の精神を忘れ選挙での勝利、つまり政権維持が目的化し、異質な政治理念すら内部に存在を容認し、更にはカルト宗教の政治組織である公明党との連立や禁じ手とも言える社会党との連立に走るなどした。
その上に、腐敗臭の漂う政治屋集団と化し国民の期待を裏切った自民党に対しては嫌悪感が強まりましたが、私は上述の信念から民主党に常日頃から胡散臭さを感じていました。
又、「国民の暮らし第一」と庶民感情に阿る主張には決して流されるまい、騙されるまいとの強い気持が湧き上がり、より一層、根幹を見誤ってはならないと考えました。
政権交代から約15カ月後の現在、私の判断に誤りはなかったと自信を持って言える状況になっています。
国防・安全保障に定見のない民主党政権は、普天間問題の混迷とその結果としての日米関係の毀損をもたらし、日韓併合100周年に際し正しい歴史認識を欠いたまま屈辱的で不必要な首相謝罪談話を出した。
尖閣諸島領域での支那漁船による我が国巡視船への衝突に関しては対支売国的姿勢に終始して支那に理不尽な策謀の余地を残した。
更にはロシアが予告していたメドヴェージェフ大統領による国後訪問を無為無策で看過し我が国北方領土の占領支配永続化を目論むロシアの横暴を許すなど、計り知れない国益の毀損をもたらしています。
これでは、国民の支持を失い支持率が急落するのは当然の帰結です。
マスメディアや偏向知識人に煽られ踊らされ、詐欺的なマニフェストに釣られ、世の中が大きく変わるような幻想を抱いたものの、屋山氏が仰せのように外交面だけでなく内政を含めての惨憺たる状況ですから、民主党に投票した多くの国民が騙されたと思い自身の情緒的な判断を後悔しています。
当然のことながら、「解散して信を問う」のが民主党政権の採るべき道でしょう。
このような状況にも拘わらず、民主党に惻隠の情をかけ暫く延命させ見守っていこうとの屋山氏の発想には。到底同意できません。自らが期待をかけたという立場からは、三下り半に躊躇する心情は判らぬではありませんが、国益を判断基準としない政権は国家・国民にとり許容できない最悪の存在であるという本質を無視しています。
初めての政権というのは理由になりません。政権交代を呼号していた政党が受け皿となる準備ができていなかったとは、厳しく非難されるべきことであり大目に見てもらう筋合いは些かもありません。
しかも、試行錯誤などと考えられるものではなく、依って立つ主要な理念が左翼思想であり国家解体に向けた動きと見られ、一刻も早い退陣こそ望まれると信じます。
60年ぶりの保守政治からの転換だからというのも可笑しな理屈です。
屋山氏は保守思想の持主だと理解しており、本稿の総意としてもそれを確認できるのですが、社会主義者が跋扈するような現政権の延命を奨めているようで真意が理解できません。民主党の本質という根幹を見ていないとしか思えません。
屋山氏が望まれる官僚支配の打破は、自由民主主義体制の下、国防・安全保障を担保できる政権を確保した上で追及すべきでしょう。
欧米先進諸国に於ける、根本理念に大きな差異がない二大政党制とは異質な、見せかけの二大政党制であることが我が国の不幸です。
国政が一刻の猶予も許されない厳しく重要なものであることは当然ですが、売国政権による国家解体の窮地から国民を救出するために国民の信を問わんとする総選挙は、如何に国政の停滞をもたらそうとも、速やかに実施することが必要です。
宰相の器でないことが明白な菅首相を、患部(仙谷官房長官)を摘出し新たな陣容で再出発させたいと仰せですが、その延命に一体どのような意義があるのでしょうか。
内閣の要たる官房長官が国家・国民を護る自衛隊を暴力装置と表現した事実だけで、この内閣は総辞職に値します。
それを含めた民主党政権の失政とも呼べる数々の出来事は、菅首相や仙谷官房長官らの個人的資質だけに根差したものではなく政党としての欠陥によるものであることが屋山氏の指摘からも明らかではありませんか。
このような政党に国政を委ねるのは、それだけで国益を損じることであり、延命を許すのは愚の骨頂です。
豊かで安全な国民生活は安定した平和があってこそ、真の安定的平和は自主独立を維持できてこそ、そして自主独立の維持は国民が国家・民族を護る決意を固めてこそ、可能なことであり、平和という言葉を念仏のように唱えても、憲法第9条を強調しても、何の役にも立ちません。
そもそも日本国憲法は、日本を二度と刃向えない国にしようとの企みからGHQが押し付けた代物であることを忘れてはなりません。
我が隣国に、「公正と信義に信頼」できるような「平和を愛する諸国民」は殆ど存在しません。それどころか、隙あらば力で日本国・日本人を従属させ支配しようという野望に満ちた獣のような民族に包囲されていると考えるべきです。
人類の歴史を回顧する時、隣接して居住する民族間では抗争が常態であったことに加え、更に捏造史観による反日教育を受け続けた隣人であるという事実を考えると、我々善良なる日本人の常識を超えるような不測の事態が生じる可能性があることを肝に銘じ、十二分に備える必要があります。
強大な相手民族の武力の前に、殲滅された民や流浪を余儀なくされた民が数多存在しますが、その中でも特に、防衛力を自ら放棄し経済的繁栄を選択した結果としてローマに殲滅されたカルタゴの民の悲劇は、決して忘れてはなりません。
その意味で、巨大人口を抱える支那の消費・購買力に魅せられ、民族の誇りや国益は二の次で商取引を最優先する経済界には、強く警鐘を鳴らしたいと考えます。
対支進出の結果、支那の身勝手な政策で経済界が損失を被るのは自業自得ですが、国家としての判断・行動を縛り国益を毀損する結果を招いてはなりません。
江戸時代に士農工商の最下位に位置付けられた背景に思いを馳せるべきです。
直ぐに殲滅されなくとも、属国化するということは民族の歴史を喪失することになり、それが民族としての滅亡に繋がります。一にも二にも、そして三にも、防衛力の整備・保持であり、それが民族生存のための根幹です。(頂門の一針)
杜父魚文庫

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