6790 一眼は足下を、一眼は世界の大勢を 西村眞悟

十一月二十四日に、この通信を入力してから気づけば今日十二月一日。その間、山形県荘内藩の地で、「頑張れ日本」の集会に出席し、翌日、石原完爾将軍の墓と佐藤幸徳将軍の墓に参り、そして西郷南洲を顕彰する南洲神社と荘内南洲会を訪れた。
今、岩波文庫にある「西郷南洲遺訓」は、明治三年、荘内藩主の公子酒井忠篤、忠実はじめ藩士菅実秀ら数十人が、遙か荘内から薩摩に赴き、西郷南洲の教えを請い、西郷の発言を書きとめた聞き書きを編纂したものである。
明治十年の西南の役により西郷が賊軍となったので、遺訓は世に出ることがなかったが、明治二十三年、西郷の名誉が回復されるや、荘内の「賢士大夫」達がこれを印刷し各々背負って東京などに赴き有志に配って世に広めた。そのいきさつを、副島種臣が冊子冒頭に書く。
「・・・故大将の威容の厳と、声音の供とを観るにあたるは、独りこの篇の存するによる。嗚呼西郷兄何を以て早く死せる乎。この書を著す者は誰ぞ、荘内の賢士大夫某某。明治二十三年一月」
戊辰の役の際、奥羽越列藩同盟は薩長土肥の「官軍」と戦った。荘内藩に攻め入ったのは、薩摩軍であった。藩主酒井候は官軍に降伏した。
その降伏のこと落着した後、官軍の大将黒田清隆は、酒井候を上座に座らせ、自らは臣下の席に降りて座った。その理由を聞かれて黒田が答えた。「西郷に指示されたことである」と。
以来、荘内の人々は、藩主以下西郷を仰いで今日に至っている。西南の役に際しても、二人の藩士が西郷軍に加わって戦い戦死している。
大正二年生まれの長谷川信夫氏は、鶴岡中学二年の時に「西郷南洲遺訓」を知り、以後生涯を西郷に捧げ、昭和五十年に財団法人荘内南洲会を設立し、翌年南洲神社を設立された。その間、多くの南洲の書を集められた。昭和五十七年南洲文庫を設立され、平成九年八十四歳で亡くなられた。南洲会館には、同氏の次の書が掲げられている。
「西郷先生、菅先生 御照覧あれ 愚拙われの 一筋の道を 信夫」
他方、会津若松城下に攻め入った官軍の指揮を執った者は、何処の藩の者か!彼ら官軍の幹部は、敢然と戦った会津藩士の遺体を埋葬することを禁じた。その遺体は放置され、犬やカラスのついばむままにされた。函館でも、土方等の遺体は埋葬を禁じられた。武士の意地を貫いた者達、如何ばかりか無念であったであろう。官軍の恥ずべき汚点である。
明治維新は輝かしい近代化であったと言われる。しかし、その変革のなかで、何時も現れるのが、このような冷酷なことをする時流に乗ったオポチュニスト、日和見主義者の成り上がり者である。このような出世主義者達が民を苦しめる。
西郷が、荘内藩士達の前で泣いたのは無理もない。「・・・草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱え、蓄財を計りなば、維新の功業は遂げられまじく也。今となりては、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける」(南洲遺訓より)
何故、西郷は、西南の役に起ったのか。また、私学校生徒達に身を委ねたのか。言い訳を一切せずに賊軍汚名を甘受したのか。遺訓に現れた西郷のこの述懐が、その答えへの道を示しているのを感じる。
荘内から帰って、京都の学生諸君に国事を語る機会があった。同志社、立命、京大の各大学の学生達だった。京都で学生生活をする諸君には、NHKに乗せられて東山霊山の長州藩士の墓所に参るのもいいが、黒谷に眠る御所を護って死んだ会津藩士達の墓にも参ってほしい。
さて、荘内藩の西郷を慕う「賢士某某」に会えて、荘内に集められた西郷の書を拝した思いを述べた上で、現在の政治情勢に目を転じたい。
そこで、思う。現在、あの「仕分け」とかで得意の表情をテレビに見せている者達。自衛隊を暴力装置と思っている総理と閣僚。これらは、得意になって会津に攻め上って汚点を残した、何時の世にも出てくる出世主義者達、日和見主義者達、つまり西郷が嘆いた者達と同じだ。つまり、時代の屑だ。
ところで、世界は複眼で動いている。アメリカの目は、東アジアだけに向いているのではなく、欧州と中東に向いている。しかし、我が国の目、菅総理とマスコミの目は、単眼だ。
九月八日以来、尖閣諸島に関する中共の恫喝だけで頭がいっぱいになって菅氏の目が泳いでいたと思ったら、十一月二十三日の北朝鮮の韓国砲撃以来、朝鮮半島で目が泳いでいる。
マスコミも同じだ。九月八日からは尖閣周辺の中国漁船一隻のことしか報道しない。その前の二百七十隻、数十隻のことは一切報道しなかった。
中共は、朝鮮半島がどうなってようと、着々と東シナ海と尖閣を奪いにきている。漁業調査船と称する軍艦を繰り出してきているではないか。目を朝鮮半島だけで泳がせるのではなく、東シナ海も同時に見つめ続けねばならない。
新聞は、「菅日記」などと表題をつけて、あのカンが誰と会ったとか、何時何分に何をしたとか毎日報道している。ばからしいから止めたらどうか。
それよりも、尖閣周辺に今日は中共の船が何隻きているとかを日々伝える「尖閣日誌」を毎日報道し、「今日は、横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから○○日が経過した」と毎日周知したらどうか。
次に、中共の動きについて書き留めておきたい。例の六カ国協議の呼びかけである。結論から言えば、この呼びかけには応じないことが良策である。我が国の外務省はその方針であろう。
私は、もともと六カ国協議には参加するなというのが持論である。あれは、拉致問題を前進させるものではなく、もみ消し雲散霧消させるものであり、主目的は、日本の核武装阻止の国際的枠組み(陰謀)である。この協議に、日本を参加させている限り、北朝鮮の核武装と日本の非核化は共に固定される。
それで、この度の北朝鮮の砲撃後の六カ国協議呼びかけであるが、これは、北朝鮮の管財人としての中共の立場を世界に明示するためのものである。つまり、中共は朝鮮半島の管理人としての立場をアメリカ始め我が国に認めさせようとしている。従って、アメリカも韓国も我が国も参加する必要はない。
 
そもそも、このような多国間協議においては、誰がハンドルを握り、誰がアクセルを踏み、誰がブレーキを踏むのか、を見極めねばならない。それは、中共とアメリカだった。
しかし、この度の呼びかけは、運転席には完全に中共が座るというものである。では、今までも、これからも、日本は何処に座っていたのか。それは、後部座席の真ん中である。だから参加する必要はない、と私は言い続けてきた。
異論を唱える方に聞きたいが、今まで六カ国協議で何かいいことがあったのか。拉致被害者救出に六カ国の足並みがそろったことがあったのか。北朝鮮が核の開発を中止したのか。
運転席から、後部座席の真ん中を振り向かれて、「次の料金所で金がかかるからよろしく頼む」と言われて払っていただけではないか。
最後に、表題に書いた言葉は、森信三先生が語られた言葉である。先生は、一眼は足下の現実を、他の一眼は民族の行く末と世界の大勢を見つめていよと語られた。従って、足下のゴミひとつ拾うことができない者に大事は語れないと教えられた。
杜父魚文庫

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