6887 日本一の無責任男の「思いつき」と「楽観」 阿比留瑠比

菅直人首相は15日、諫早湾干拓事業に関する国の上告断念を表明し、「最終判断だ」と強調した。だが、大局的見地からの決断ではなく、自らの指導力をアピールするための場当たり的な対応だったようだ。
外交・安全保障も、財政も、国会運営も、すべて思いつき。口を開けば根拠不明な楽観論…。首相の行動原理は「無責任」に支配されているのではないか。
首相は就任直後の6月の所信表明演説で唐突に故青島幸男元東京都知事の名を挙げた。ともに婦人運動家の故市川房枝氏に師事した縁があるようだが、首相の言動を追うと青島氏が作詞したクレージーキャッツの名曲「だまって俺について来い」の一節を思いだす。
「青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう~」
だが、何ともなりそうにない。首相は17日に沖縄県を訪問するが、米軍普天間飛行場移設問題は解決のめどが立たない。参院で問責決議を受けた仙谷由人官房長官が居座ったままでは、来年の通常国会召集を決める議院運営委員会理事会さえ開けないと懸念されるが、なお内閣改造は「考えていない」という。
自らが指示した法人実効税率の5%引き下げの財源確保策も「財務省が必ず掘り出してくれる」(仙谷氏)と官僚任せ。民主党の小沢一郎元代表の国会招致問題からもひたすら逃げ続け、岡田克也幹事長に「一任」しっぱなしだ。
「物事を進めるためのスケジュール感、手続き、段取り、根回しが全くない。行き当たりばったり、思いつきだけ。この政権にはほとほと愛想が尽きた」
民主党現職幹部までもこう嘆く。同じく青島氏作詞の「無責任一代男」の一節を連想させる様相だ。
「人生で大事なことは タイミングに C調に 無責任」
思えば、鳩山由紀夫前首相もそうだった。何の「腹案」もなく普天間飛行場の移設先を「最低でも県外」と口走った揚げ句、「私は愚かな(ルーピー)首相かもしれない」と国会で認めざるをえなくなった。
首相はその轍(てつ)を確実に踏んでいる。沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件では、自分の外遊中に那覇地検が独自の外交判断で中国人船長を釈放したと言い張るが、事情を知る政府関係者はこう語る。
「本当のことを知っている人はいる。うそを取り繕うために新たなうそを重ねても綻(ほころ)びは必ず出る」
平成16年3月に中国人活動家7人が尖閣諸島に不法上陸した際、当時の小泉純一郎首相は送検せずに中国に強制送還した。このとき小泉氏は菅首相とは対照的に弱腰批判を甘受して「私が大局的に判断して指示した」と責任を負った。
外務省中堅は最近、各国の大使館関係者と会うたびに「日本政府は何で『船長釈放は政治判断だ』と言わないのか」と尋ねられ、返答に窮するという。首相や仙谷氏の主張は国際社会でも信用されていないわけだ。「仮免許」で済む話ではない。その場しのぎで保身を図る卑(ひ)怯(きょう)さは、自らの首を絞めるだけでなく、国益を確実に損ねている。
首相は11月27日に鳩山氏と会った際、「支持率が1%になっても辞めない」と発言したとされる。政府答弁書で「第三者の言葉」だったと否定したが、やはり首相の本音ではないか。
やはり青島氏作詞の「ドント節」にあまりに有名な一節がある。
「サラリーマンは 気楽な稼業と きたもんだ」
「無責任」で一世風(ふう)靡(び)したクレージーキャッツの故植木等氏らは実は責任感の強い男たちだった。長引く不況でサラリーマンはもはやお気楽ではない。首相はいつまで「気楽な稼業」を続けるつもりなのか。
杜父魚文庫

コメント

  1. yosi より:

    民主党という政党の国会議員は各種「実業」分野から政治に転じた人が多いそうである。こういう人たちは今の自党の体たらくをどのように思っているのだろうか。
    例えば、まともな社会人は同じ時刻に異なる人と異なる場所で会う約束などはしない。民主党のやっていることはこの程度のことである。弁護士、元役人、元実業家、元サラリーマン等々、一体この人たちはどのような働き方をしていたのであろうか?
    明らかに「落第生」である。国家の運命を「落第生」に任せるような愚民の眼力は悲しい。民主党の愚かさは野党時代から明白であったろうに。被害を受けるのは愚民である。

  2. noga より:

    日本の政治指導者は、民衆の感情をたきつけて自己の勢力を得ようとする。
    民衆の感情が自己の力である。民衆が理性を取り戻すことを呼びかける者ではない。
    感性あって、理性なし。指導者は、ブレーキの効かない機関車の役割を果たしている。
    「理解」という日本語は、首を縦にふることであって、話の筋を把握することではない。
    だから、理解しているにも拘わらず反対であるというと意味がわからなくなる。
    国民の理解を求めるとは、あくまでも肯定せよということである。
    一種の「長いものには、巻かれろ」という指導者の要求でもある。
    決して民衆の理性に訴えるものではない。
    理性のない民が問題である。国を危険にさらすのである。このことは、今も昔も変わらない。
    リーズン (理性・理由・適当) の理解は、日本人にとって難しい。
    それは、日本人が世界観を持たないことに関係がある。
    世界観とは、自分がどのような世界に住みたいかという、非現実的な内容である。
    自分が見たくもなく、聞きたくもなく、話したくもない内容の存在しない世界は、一体どのようなものであるかということである。
    このような内容を持ち合わせていないならば、憲法を含む基本法の改正など思いもよらない。
    日本語には時制がない。だから、日本語脳は、現実とは違った別世界の内容を考察するのには都合良くできていない。
    日本人は、考えの上であっても現実の世界を脱出できない。
    世界観の代わりに「世の中は、、、、」の内容を考えている。
    「人をなぜ殺していいけないのか」の問いには、「それは、自分が殺されたくないからだ」と答えることになっている。
    もしも、自分が殺されないのであれば、その時の基準はどうなるのであろうか。
    恣意の世界の自由主義 (自由の履き違え) になるのであろうか。
    現実の内容と非現実の内容を区別することなく語れば、それは空理空論となる。
    これは、日本流高等教育の行き着く先でもある。卒業生は曲学阿世の人になる。
    現実を離れた問答ができなければ、人間は、子供かアニマルのようになる。
    これは、昔マッカーサが観察した姿の日本人と同じである。
    http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
    http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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