6891 大正元年生まれが百歳になる二〇一一年 古沢襄

大晦日まで、あときっちり二週間。老人にとっては毎日が日曜日のようなものだから、特別の感慨もないし、師走といった慌ただしさも感じない。暮から正月にかけて二人の娘の家族が泊まりがけでやってくる。亭主を連れてくるので、酒を飲む相手が来る楽しみがある程度。
それでも新しい年を迎えるささやかな準備だけはしておくつもりでいる。書斎の机の前に一枚の張り紙を飾っている。今年は
二〇一〇年 平成22年、昭和85年、大正99年、明治143年と書いておいた。ものを書く時にこの張り紙が、結構、役に立った。
新しい年は二〇一一年、平成23年、昭和86年、大正100年、明治144年になるわけだ。つまりは明治45年と大正元年生まれが百歳になる二〇一一年。明治40年生まれの父が生きていれば105歳、43年生まれの母なら102歳。わが家は長命の家系だから、戦争がなければ存命していたかもしれない。
父は39歳でシベリアで病没したから没後66年になると計算が出来る。親友で菩提寺の全英和尚が曹洞宗の「平成23年辛卯(かのとう)年回早見表」を送ってくれた。
一周忌(平成22年逝去)、三回忌(平成21年逝去)、七回忌(平成17年逝去)、十三回忌(平成11年逝去)、十七回忌(平成7年逝去)・・・五十回忌(昭和37年逝去)、百回忌(大正元年逝去)とある。
私は仏心がある方ではない。一応は曹洞宗の門徒なのだが、座禅を組んだこともない。それでも夏には菩提寺の本堂でゴロ寝して気持ちを安めることをしてきた。あとは全英和尚と酒を酌み交わすだけの不心得者。
沢内・古沢家は初代善兵衛が安永2年(1773)に逝去している。戒名は玄質道了信士、雫石邑生まれの人である。初代が逝去して238年、私は十代目に当たる。沢内・古沢家の最古の墓碑(墓碑銘は読み取れない)として延享5年(1748)があるから、没後でも263年の歴史を刻んでいる。最古の墓碑は初代善兵衛の母なのであろう。
この家系は雫石邑から沢内邑に移村してきたのは、菩提寺の過去帳で明らかなのだが、雫石邑には古沢家の足跡は残っていない。僅かに雫石町の曹洞宗・広養寺にある古沢屋理右衛門義重の墓があるだけである。この人物は一人で雫石邑に現れ、寺子屋の師匠をしていたが、死後は一族が忽然と消えていた。
広養寺の墓も寺子屋の門弟が遺したものである。爾来、雫石には今日に至るまで古沢姓はない。全英和尚は広養寺の和尚と話し合って、来年春までに理右衛門義重の墓を玉泉寺に移すことになった。合わせて川崎の霊園に私が建てた古沢家の墓も玉泉寺に移すことになった。
私の家も二人の娘が他家に嫁いだので、私の代で絶家となる。沢内・古沢家は菩提寺の開基家ではないが、準開基家として玉泉寺に尽くしてきたことは、江戸時代に寄進した「一点山」の山額が今日まで遺っていることでも明らかである。
私も古沢元・真喜夫婦作家の文学碑を玉泉寺境内に建立して頂いたので、本堂に寺鐘、境内に等身大の観音像を寄進した。また昭和文学史に残る「人民文庫」の作家たちの初版本をすべて菩提寺の資料館に納めた。大学で「人民文庫」を研究する学徒にとっては貴重な文献資料になる筈である。
そのこともあって全英和尚は、来年は沢内・古沢家の墓所をまとめて玉泉寺に造ることを勧めてくれた。私の家は私の代で絶家となるが、およそ300年の歴史を刻んだ沢内・古沢家の親族・縁者は広く残っている。同じルーツを持つ人たちによって沢内・古沢家の歴史が守られるであろう。
杜父魚文庫

コメント

タイトルとURLをコピーしました