6907 救国のタフ・ネゴシエーターとは 古森義久

「識者50人が選出した日本史上最強のタフネゴシエーターは誰か」というわけです。私もその「識者?」の一員に加えられ意見を述べました。いわゆるアンケートです。
私が「交渉巧者」として推したのは元首相の岸信介氏でした。その岸信介氏が全体のアンケートでは第五位にランクされたそうで、私がその「理由」を説明することになりました。その説明の記事はSAPIOに掲載されています。
<<慧眼  マッカーサー駐日大使が評価した安保改定の裏の「効率的な働きかけ」>>
日本の戦後史でも岸信介氏ほど苦境、逆境のなかで対外交渉をうまく達成した政治指導者は珍しい。外交交渉の相手は単に外国ではなく、実は背後にいる自国の各種政治勢力なのだという場合も多い。
岸信介氏はその点、背後から飛んでくる反対の銃弾をも毅然かつ巧妙にかわし、対外交渉を所定の路線で着実に進めていった。まさにタフネゴシエーターの名に値しよう。
岸信介氏の対外交渉といえば当然、1960年(昭和三十五年)、日米安全保障条約の改定である。岸氏は当時の総理大臣だった。
岸首相の最初の交渉相手となった駐日アメリカ大使のダグラス・マッカーサー二世に、私は一九八一年四月にインタビューしたことがある。
「日米安保条約改定の期間の2年半ほどで、私の考えでは最も高い評価に値する人物は岸信介首相です。与党の自民党でもほとんど一人でがんばり、しかもアメリカ側への対処もみごとでした
マッカーサー大使が岸氏から日米安保改定の話を最初に持ちかけられたのは、1958年夏だった。以来、2年ほどを費やした岸氏は日米安保条約の改定を成しとげたのだった。
当時の日本はすでにアメリカとの間に安保条約を結んではいたが、その内容は、主権国家お対外的な同盟のきずなとは思えないほど一方的であり、大ざっぱなものだった。
たとえば、この旧条約は米軍に日本駐留を認めただけで、日本への攻撃があったときには、在日米軍が日本を防衛することは明文で決められてはいなかった。米軍が日本国内に核兵器を持ち込むことも、大部隊を移動させることも、規定はなかった。
そのうえ在日米軍は日本国内の治安維持出動をも認められていた。まさに占領軍なみの特権だったのだ。
マッカーサー氏は語った。「アメリカは1958年の当時、すでに対等性と相互性に基づく同盟のための安保条約を西欧諸国とも東南アジア諸国とも、韓国とも台湾とも結んでいました。日本との条約が唯一、平等や相互の基本がなかったのです。岸さんはこの点を説いて普通の安保条約に変えることを求めてきたのです。しかも私がアイゼンハワー大統領とも、ダレス国務長官とも個人的に親しいことを知ったうえでの効果的な働きかけでした」
日本には憲法9条があり、アメリカとの軍事同盟でも普通の相互性は盛り込めなかったにせよ、新安保条約では米軍による日本防衛の責務や運用上の大幅な変更への事前協議制をきちんと明記することとなった。
岸氏はこうした諸点をまずマッカーサー駐日大使を通じ、アメリカ政府としっかり交渉していったのである。首相自身が先頭に立ってのタフな交渉だったのだ。
しかも岸首相のこの安保改定は日本国内で猛烈な反対にあった。ソ連と中国がその反対を最大限にあおっていた。
安保反対のデモ隊に国会が包囲され、岸氏の私邸も包囲され、国内の一大危機と思われる状態にもなった。だが岸首相は頑としてその反対を抑え、日米安保条約の改定を成しとげた。
それ以後の50年間、日本は平和と繁栄を享受した。
もし安保がその時代に破棄されていたら日本はどうなっただろう。それを考えれば、岸信介氏の英断は証明されたといえよう。
杜父魚文庫

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