北朝鮮の権力構造で姜錫柱(カンソクジュ)ほど生命が長い外交官はいない。姜錫柱が西側から注目されたのは、カーター・金日成会談(1994年)に際して、側近でただ一人出席していたことであった。金日成はカーターとのやりとりで、いちいち姜錫柱の意見を求め、助言を得ていた。
それを見ていたカーターは会談後、姜錫柱と会って細部にわたる詰めの交渉をしている。1994年6月16日のことである。6月15日に平壌に着いたカーターは、ただちに金永南(キムヨンナム)外相と最初の会談をもったが、金永南は頑なで非妥協的な態度を貫いた。カーターはその夜、絶望的な気分になったと回顧している。
金日成が外相の金永南よりも第一外務次官の姜錫柱を重用していると知ったのは翌日のことである。北朝鮮でナンバー・ツウと西側でみられていた金永南よりも外交案件では姜錫柱の方が金日成に強い影響力を持っていたということは、米国はじめ西側が初めて知るところとなった。
今になれば、独裁国家である北朝鮮では当たり前のことだと言えるが、当時としては西側の常識では測れないことだったといえる。
その姜錫柱も金日成死去によって失脚すると西側から観測されている。しかし金正日体制になっても姜錫柱は生き残っている。これは北朝鮮が儒教共産主義という特異な政治形態を持つ影響なのであろう。金正日体制でも姜錫柱の影響力は衰えるどころか、金正日側近として重きをなしている。姜錫柱に代わる外交トップはまだ生まれていない。
姜錫柱が米側との外交交渉で姿を現したのは1993年、クリントン政権下の対北朝鮮二国間交渉の場であった。平壌の国際関係大学を出た姜錫柱は欧州問題担当の外務次官ということ以外には何も知られていなかった。二国間交渉の米側代表はロバート・ガルーチ国務次官補。
ガルーチの眼にはこれまでの頑な北朝鮮外交官にない率直で話合いにも積極的な姜錫柱に驚く。姜錫柱は米交渉団員の前で愛読書は「風とともに去りぬ」と言った。それが嘘でない証拠に、本の一節をそらんじてみせている。
しかし交渉に入ると姜錫柱首席代表はタフなネゴシエーターであることを示して、ガルーチは妥協を強いられた。北朝鮮との交渉で、宇宙人みたいな独特の論理で振り回される恐れはなくなったが、西欧的な論理で議論を展開して米側の譲歩を粘り強く求めてきた。この術は欧州問題担当の外務次官として身につけたものであろう。
姜錫柱は北朝鮮の国内で生産される天然ウランと広く用いられている黒煙炉技術を用いて、平和的な原子炉計画を持っている、核兵器を生産するつもりはないと、繰り返し主張した。そしてエネルギー需要を満たすために、より近代的で核拡散の恐れが少ない小さい軽水炉に転換すると表明した。
姜錫柱の提案にガルーチも会議のテーブルに着いていた技術専門家も最初は乗り気ではなかった。交渉の場をワシントンからスイスのジュネーブに移した後も姜錫柱は軽水炉計画を主張し、一基あたり10億ドルはかかる巨額な費用を西側が支援することを求めている。ガルーチは「軽水炉の導入を支援し、入手方法については北朝鮮とともに研究する」と譲歩せざるを得なくなった。
この交渉は1994年7月8日に金日成が死去した後も続けられている。10月21日にジュネーブで米朝合意が成り、西側は軽水炉を手配し、その建設期間は暫定的な代替エネルギー(重油)を提供するという米側の譲歩を引き出した。北朝鮮は米朝合意を外交的な勝利と位置付け、ジュネーブから帰国した姜錫柱は凱旋将軍のごとく栄誉式典で迎えられた。
しかし米側の譲歩にもかかわらず北朝鮮は核開発計画を捨てていない。すでに核爆弾を数個製造したという情報もある。悪くいえば、姜錫柱に手玉をとられた米朝交渉だったといえる。
杜父魚文庫
6916 外交トップの姜錫柱と譲歩した米外交 古沢襄

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