6926 角さんのメディア感覚、「弱かった」 岩見隆夫

新聞、テレビを批判する時、「最近のマスコミは……」と言うのが普通になっている。先日もある講演先できつい調子の質問を受けた。
「日本がこんなになったのも、結局はマスコミが悪い。批判ばかりしていいことをいいと言わない。褒めたかと思ったら、すぐにけなす。世間は何を信じていいかわからなくなるんだよ。マスコミはもっと公平に世間をリードしなければならないのじゃないか。そう思いませんか」
同じようなお叱りが増えてきたように思う。二〇一一年も、もろもろの不平、不満のホコ先がマスコミに向けられる一年になりそうだ。マスコミ側に自省、自戒が必要なことは言うまでもない。
というわけで、マスコミという英語が、批判の矢面に立つ場面が多くなるにつれて、マスコミ側の住人としては、なんとなくこの言葉を使うのに臆する気分になっている。私の思い過ごしかもしれないが。
かわる言葉にメディアがある。厳密には意味が少し違う。マスコミはマスコミュニケーションの略で、新聞・雑誌・ラジオ・テレビ・映画などの媒体を通じて行われる大衆への大量情報伝達のこと。インターネット、ケイタイも加えるべきかもしれない。メディアはその〈媒体〉のことだから、どちらを使っても大差はない。
マスコミの内側の人たちが書いた本が私の書棚に何十冊も並んでいるが、改めて眺めると、題名に『メディア王国の野望』『メディア影の権力者』『メディアと権力』『メディアと政治』など、メディアを採用したものが圧倒的に多いことに気づく。マスコミという使い古された言葉ではしっくりこない、という語感の問題もあるのではなかろうか。
よけいな前口上を書いてしまったが、記者先輩の北野栄三さんが二〇一〇年十月、『メディアの光景』(毎日新聞社)を出版された。十年前の『メディアの人々』(同)との姉妹本である。前著を取り出し、出版記念会のあといただいたお礼状を読み返してみると、〈メディアの世界は、わたしのただ一つの居場所として、いましばらく働くことになると思いますが、……〉
と記されていて、思わずうーんと唸った。なぜなら、鳩山由紀夫前首相や菅直人首相が所信表明演説で、新しい造語みたいに好んで使っている〈居場所〉という言葉を、十年前に北野さんが使っていた。単語だけでなく、北野さんの文章には、いつも時代の風を先に読み取るような新鮮さがあって、後輩としては仰ぎ見てきたのである。
この時、北野さんはすでに古稀、新著はさらに傘寿までの成果をまとめたものだ。芥川賞作家の辻原登さんが新著に称賛のコメントを寄せている。
〈新聞、週刊誌、ラジオ・テレビ、編成、制作、映画。これだけのメディアの第一線で、気骨を貫き、エスプリとウイットに富んだ仕事をしてきたジャーナリストは、戦後、北野栄三をおいて他にいない。その文の射程は、深く遠くまで届いている。「大森外信部長追放劇」を読んで、あらためてそう確信した〉
◇駆使し、支配のつもりで実は乖離に気づかない
第一線の職名は、毎日新聞社会部記者(大阪)、『サンデー毎日』編集部員、毎日放送(大阪)報道局長、テレビ編成局長、テレビ制作局長、常務取締役、和歌山放送社長・会長、バーチャル和歌山社長・会長、映画『植村直己物語』(八六年、東宝)のプロデューサー、である。
辻原さんが特記した同書冒頭の「ベトナム戦争とメディア─外信部長の追放劇」四十ページは、詳細な資料を駆使し、ベトナム政局の断面をえぐりだしたリポートとして出色だ。
敏腕国際ジャーナリストの大森実外信部長と追放劇の主役、ライシャワー米駐日大使のほか、ジョンソン米大統領、スカルノ・インドネシア大統領、秦正流・朝日新聞外報部長、マンスフィールド米上院議員、佐藤栄作首相、曽野明外務省情報文化局長ら多彩な人物が登場する。なかでも、大森さんのハノイ報道にあわて、保身に走るライシャワー大使の心理描写は、これまでの大森追放をめぐる多くの出版物のなかにない、すぐれた分析と思われる。
大森さんは北野さんや私たちが敬愛する〈記者魂の鬼〉のような方だった。この一文には、大森イズムをたたえたい北野さんの執念が込められているようで、感じ入った。ぜひとも一読をすすめたい。
大森さんが毎日新聞を無念の思いで退社したのは一九六六年一月十三日だが、
〈大森の毎日退社が伝わった日、東京・有楽町にあった朝日新聞東京本社一階の販売局の大部屋の壁に、畳二帖の大きさの紙が張り出された。その紙には墨で黒々と「今がチャンスだ。朝日を売り込め」と書かれていた〉
でリポートは結ばれている。追放劇の裏では、朝・毎のメディア戦争も同時進行していたのだ。
新著の内容は多岐にわたっているが、政治記者の仕事柄、「政治家のメディア感覚」の項も気になった。北野さんは、七〇年代に角福戦争を演じた二人について、
〈メディア感覚にはっきりしたコントラストがあった。大衆政治家とみられた田中角栄の方が、意外にも官僚育ちの福田赳夫に比べるとメディア感覚が弱かったというのが私の印象である〉
と書いている。ユニークである。メディアを駆使し、支配しているつもりで、実は離れていることに角さんは気づかなかった。また、
〈毛沢東は、井岡山に雌伏していたとき、新聞を入手することだけのために、兵士を降ろして町を攻めさせた。「ゼネラル・ミクロ」(マイクロフォン将軍)と仇名されたドゴールは、ラジオを唯一のたよりにフランス国民とつながり、これを鼓舞してフランスを戦勝国にした。テレビの時代になっても、マイクの前に立つことを重視した彼は、終生メディアへの敬意を失わなかった。こうした光景はメディアの外側の人々にも知っていてほしい〉
と書いた。メディアを利用するか批判するかしかない政治家が目立つ昨今、警鐘の書でもある。(サンデー毎日)
杜父魚文庫

コメント

  1. yosi より:

    最近のメディア批判にご不満のようですが、今の大マスコミ(新聞・TV)の記者さんは海外で入国カードが必要な場合、御自分の職業(occupation)蘭に何と記入されるのでしょうか?press, journalist, company staffとありますが多分company staff(会社員)でしょうね。
    会社員ですから会社の方針に従って白いものでも黒というのでしょうね。生活あるし、子供も小さいし、しょうがないですよ。でも一個の人間として忸怩たる思いというものはないですか?長いものには巻かれろ、いいっぱなし、弱いものいじめ(特にTVの製作下請け)、芸能レポーター並みのセンセーショナリズム。これだけ揃うと自己嫌悪になりませんか。
    因みに私は興味ある問題が起きたときは海外マスコミのwebsiteを見ます。だから「報道の責任」などと大上段に構えず、今までどうりやればよいです。自分が思うほど他人はあなたの言うことに重きを置いてないですから。

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