菅直人首相は支持率低落に歯止めが掛からず、政権浮揚策に躍起だ。時事通信の12月調査によれば21・0%(前月比マイナス6・8%)にまで落ち込んだ。20%割れ目前といっていい。10%台になれば、いよいよ政権継続に赤信号が灯る。
そこで、硫黄島に出掛けて遺骨収集に汗を流したり、沖縄を初訪問して知事と会談したりするなど、あれこれのパフォーマンスを展開している。最大のものが「小沢切り」だ。
◇茨城県議選惨敗を機に「小沢切り」へ
菅首相は、国会の政治倫理審査会への出席を求めて、小沢一郎民主党元代表との会談を設定した。対応を一任された岡田克也幹事長が、その頑固一徹の性格をもろに出して突っ走り、抜き差しならないところまで来てしまった。
不思議なのは、小沢氏を国会の場に引きずり出そうという圧力が、野党からではなく民主党内部から出たことだ。世論調査では「小沢氏は国会で説明すべきだ」という回答が高い率に上っていることから、ここで小沢氏を責めれば政権延命に得策と踏んだらしい。
これは政治の現実をリアリズムで見た場合、何とも奇異に映る。臨時国会が閉幕したのだから、野党は小沢氏の問題を追及する場は当面なくなったと判断、通常国会に先送りする腹だったはずだ。
岡田氏らが小沢氏の政倫審出席を求めて動き出した当初は、12月12日の茨城県議選を見据えた思惑によると見られた。ここで党としての自浄努力の姿勢を示せば、選挙には有利に働くという判断があったのだとすれば、これは政治的にはよく分かる。
だが、県議選で惨敗したことで、「小沢問題」に今度は逆の意味で勢いがついてしまった。「惨敗の要因は小沢問題が大きい」という深刻な認識が生じ、菅首相周辺が本格的な「小沢切り」に出ることになる。当然、「反小沢」の急先鋒である仙谷由人官房長官の意向が作用したのであろう。
◇小沢問題だけでない敗因
だが、千葉県松戸市議選に続く茨城県議選の惨敗は、「小沢問題」だけが要因だったのかというと、そうとも思えない。相次ぐ外交・安保問題での失態に加え、景気回復に確固とした政策を打ち出せないままの菅政権に対し、総合的なイメージダウン現象が生じているのではないか。
菅首相直撃を避けようとしてか、意図的とも思える「挑発的言動」を繰り返した仙谷官房長官の責任も重い。仙谷氏とすれば、そうしたことへの批判を「小沢切り」で乗り切ろうとしたのかもしれない。
「小沢問題」をどう処理すべきか、確たるシナリオがあったとも思えない。誠実一路の岡田氏は何事につけ一直線に動くタイプだ。中元・歳暮のたぐいはすべて送り返すことに象徴されている。
平時であれば、清廉潔癖なイメージそのままに幹事長職を務めていればすんだのだろうが、ここは腹芸が必要な局面であった。「小沢問題」は年明け以降の強制起訴の段階で必ず再浮上するのだから、いま追い詰めるべき時期ではなかった。
自民党の石原伸晃幹事長は「民主党のアリバイ工作に加担するつもりはない」として、政倫審で招致議決を行おうとしても自民党は出席しないと逆攻勢に出た。そういっては何だが、この石原氏の言動の方がはるかに政治の実態を熟知しているように見える。
小沢氏が政倫審出席を拒否し続けた場合、困るのは菅首相の側だ。首相の意向を無視されたら、ここは「離党勧告」に踏み切る以外にない。それをしなかったら、今度は菅首相の「腰が定まらない姿勢」が批判の矢面に立たされることになる。
「離党して新党をつくっても20~30人しかついていかない」といった声が菅首相周辺から聞こえてくるが、本当に離党まで読み込んだ上で、小沢氏を強硬に責め立てているのかどうか。
◇党の成熟度が試されている
仮に小沢氏が離党して新党を結成するとなれば、年内ということになる。1月1日現在で政党交付金が算定されるからだ。
たとえ少数の新党であったとしても、衆院の現状を考えると、国会対策を立て直す必要が出てくる。社民党6議席を加えると、かろうじて再議決可能な3分の2ラインに達するため、社民党に連立復帰を求めようとしていた一時の動きとの関連性はどうなるのか。
あるいは、自民党側に「小沢抜きの民主党となら大連立を組める」といった意向を漏らす向きもあることから、これを狙おうというのか。
いずれにしろ、百戦錬磨の小沢氏がこの段階で国会招致に応ずるわけがない。応ずる場合は、そのことによって野党から大きな譲歩を引き出すことができる、あるいは民主党の窮地を救うことが可能になる、といった「大義名分」がなければならない。それが「大人の政治」である。
「小沢問題」というのは、民主党にとって小沢氏の政治資金にからむ疑惑解明をめぐり自浄能力を示せるかどうかといった次元で語られているが、実はそれだけではない。小沢氏の国会招致を党の役員会で「決定」(対応は岡田幹事長に一任)した以上、これを実現できるのかどうか、実現できるという見通しがあってのことか、党の成熟度が試されているのである。
杜父魚文庫
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