明治二年 己巳(ツチノトミ・・・1869年の記録)
【巣郷本の記録】
この年もお役人様が通ること限りなく続いた。この年、南部藩の関所である越中畑の御番所は役人も引き揚げられ無くなった。この年光銭一文(微量の金、又は銀を含んだ一文銭)は十二文となって売買された。田畑の作物は下の下作となり、沢内通り一円は種を採ることができなかった。
【「岩手県史―第十二巻(年表)」より】
☆一月四日 南部利恭(彦太郎)白石転封のこと盛岡に達する。
○十五日会計官権判事林友幸(山口藩主)直隷地事務管掌のため盛岡に来たり駐在する。
○二十日久保田藩(秋田藩)南部表鎮撫行政司付属軍隊帰還する。
○同日南部藩家老目時隆之進東京にて幽閉されついで二十六日盛岡に護送される。
○三十一日八戸藩公用人高橋秀之進藩の徴兵京都着の届書を軍務官役所に提出する。(一万石につき十人当分の内三人、八戸藩六人)
○一月中旧南部領領民、南部氏の白石転封を聞き動揺、各地に集合し、転国停止を歎願諸侯に執成を請い、或いは上京して控訴するに至る。
☆二月八日弘前藩陸奥三郡取締を解かれ、下野黒羽藩主大関増勤陸奥三郡(北、三戸、二戸)の取締となる。三郡の庶民津軽氏の取締下に入るを嫌い、八戸領に越えその治下に入るを望む歎願をなし、不穏となったためといわれる。
○三十日土岐隼人正胆沢、磐井の取締を免ぜられ、前橋藩松平大和守任ぜられる。
☆三月四日南部彦太郎版籍を奉還する。
○十四日一関藩田村氏磐井郡東山地方七か村の取上げを布達される。
○十九日八戸藩主南部信順版籍奉還に関して書を奥羽鎮撫総督弁事に送る。
○二十五日箱館叛徒鎮定に向かう官軍軍艦八艘宮古浦に仮泊中、叛徒側軍艦
三艘に襲われ海戦する。
○同日紫波郡郡山に役人(代官所物書)膺懲一揆あり。
○二十六日宮古浦海戦に敗れし叛徒軍艦一艘乗組員(高尾、船将古川節蔵以下九十五人)田野畑村羅賀に上陸野田代官所に降伏する。南部家これを東京に護送する。
○二十七日直隷地取締役権知県事小幡内膳一行(松代藩真田家)盛岡に到着
六日町に止宿する。
○三十日直隷地取締役権知県事西郷庄右衛門一行(松本藩戸田家)盛岡に到着呉服町に止宿する。
○三月中八戸藩主南部信順版籍を奉還する。
☆四月三日前橋藩取締地(胆沢、磐井)の権判事以下を任命する。権判県事朝岡剛平、富田洞仙。
○七日陸奥三郡直隷地取締役権知県事村上一学一行(黒羽藩大関家)盛岡に到着、本町に止宿する。
○九日南部雄麿(旧九戸邑主)七戸藩領域定まり物成上納につき領民に告ぐ。
○同日八戸藩治職制実施を布告する。
○二十四日南部藩取締諸藩各権知県事へ旧領地帳簿一切を引き渡す。
《「岩手県史―第十二巻(年表)」の記載内容は詳細で膨大であるため、以後はその年の各月ごとの主な内容だけを紹介します。》
☆五月三日真田藩盛岡県御役所を設立。郷村職名を改め申渡状十九カ条、心得条二種十二箇条を布告する。
☆六月二日南部雄麿版籍奉還につき上表する。
☆七月二日安藤信男旧臘十二月七日以来の謹慎を解かれる。二十二日南部利恭(彦太郎)七十万両の献納を条件に盛岡復帰を許される。
☆八月二日南部利恭盛岡藩創置に備え盛岡市中の商人鍵屋茂兵衛以下寿得六人を御用達に指定する。後日、日詰花巻沼宮内の商人八人をこれに加える。十日南部利恭盛岡藩知事を命じられ陸中の内岩手紫波稗貫和賀の各郡十三万石を管轄と決める。
☆十月七日盛岡藩東次郎以下県官の発令あり。十日盛岡県庁舎において盛岡藩代表野田玉造(権大参事)へ管地事務引き渡され盛岡藩庁開庁する。十二日盛岡藩管内四郡を四郡令所に分管、上田、沼宮内、花巻、沢内に令所を置く。
☆十一月一日盛岡藩藩治六局制を改め三職四局制とする。同日盛岡藩大参事東次郎七十万両献金達成につき藩士に厳命を発する。又この月十八日には知事庁に会議を開く。
☆十二月十一日胆沢県政府政策により劣質通貨の交換を布告する。同日胆沢県官山林の調査書上げに着手する。十二日盛岡藩職制の一部を改革する。
『県外事項』
◎一月二十日諸道の関所廃止する。
◎三月二十日諸宗会盟員一同キリスト教防衛を連署歎願する。二十八日東京遷都する。
◎四月八日府県の私兵編成を禁ずる。
◎五月十三日議政官廃止官吏公選法採用の詔下る。十八日榎本武揚投降し箱館戦争終結する。
◎六月十七日公卿諸侯の称廃止し華族と称する。同日諸藩に対し類籍奉還を許可し各藩知事に任命する。
◎七月八日会計官を廃止し大蔵省を設置する。十七日府称を東京・京都・大阪に限り他を県と改称する。
◎八月十五日蝦夷地を北海道と改称する。十九日諸藩の津留(戦国大名などが軍略上、物資の領域外への移出を禁止したこと)を解禁する。
◎十月中、宮城県、富山県、三重県、山梨県等に一揆起こる。
◎十二月二日、中、下、大夫、士以下の称廃止し士族・卒と称する。二十三日府藩県の紙幣製造を禁ずる。二十五日京浜間に電信開通する。この日、浦上キリシタン三千余人を逮捕し二十一藩に流刑する。
明治三年 庚午(カノエウマ・・・1870年の記録)
【巣郷本の記録】
新しい県になってからの出来事である。山林、刈野(原野、草刈り場)、家屋敷、田畑、東西何百間(面積)名張(名前、呼び名)は何、家の大きさ何間、小屋の大きさは何間、人々については年齢は何歳か、何月何日生まれかを書き、申し上げねばならなかった。
書き上げた人については「札」という縦三寸(約、10㎝)横二寸(約、6㎝)に記した。「陸中国和賀郡越中畑村九右エ門孫熊吉弘化元年甲辰六月出生」と書くように熊吉一人につき一枚ずつ下された。この年から、どんどん名称も変った。代官所は民事出張所、検断は副市長、肝煎りは村長、老名は副村長、五人組(頭)は伍長となった。
越中畑村勘右エ門は百姓代という役を仰せつけられた。郡長という者が盛岡から湯田村にお出でなった。これに沢内村中の百姓共が米、味噌、薪、等生活物資を出し続けなければならず迷惑した。
この年から神々の神社が廃社になった。新田地区には四社があったが、杉盛閣神社の一カ所となった。越中畑に一カ所、小繋澤に一カ所、柳沢に一カ所、芦ケ澤に一カ所となった。この他の宮は廃社となった。この年の作柄は中作であった。
【岩手県史―第十二巻(年表)より】
『県外事項』
◎一月三日大教宣布出る。一月中に大・中・小学規則六ケ条制定される。
◎二月十三日樺太開拓使を設置する。二十二日府藩県に外国よりの起債禁止を令達する。
◎四月二十四日各府県に種痘を行わせる。
◎六月中小学校を東京府六ヶ所に開設する。
◎七月十日民部・大蔵省を分離する。二十四日田方地租は米納、畑方地租は石代納に決定する。
◎八月二十六日大阪神戸間電信開通する。
◎九月十日藩制改革令を出す。十九日平民の姓を許可する。
◎十月二日常備兵員制を制定する。二十日工部省を設置する。閏十月二十九日畑方地租はすべて米穀を標準として代金納額を算出させる。
◎十一月十三日府藩県に徴兵規則領布する。十一月中、新貨幣品位及び量目を確定し銀本位制採用に決定する。
◎十二月十六日宮城県栗原郡宮沢村ほかに一揆起こる。二十四日平民帯刀を禁じられる。十二月中、卒・士族帰農商出願者へ賜金制度設置する。(家禄奉還)
明治四年 辛未(カノトヒツジ・・・1871年の記録)
【巣郷本の記録】
この年も何かと制度が改まり、伍長の方々は毎日忙しかった。この年は田畑ともに上作であった。
【岩手県史―第十二巻(年表)より】
『県外事項』
◎一月五日社寺の所領奉還する。十九日田方正租外の税米を金納とする。
◎四月五日戸籍法を公布する。
◎五月二十四日一般農民の米販売を許可する。
◎六月二十五日西郷、参議に任命され木戸孝允と協力内閣成立、大久保利通辞職する。二十七日大久保大蔵卿に任命される。
◎七月四日政教一致の趣意書布告される。九日刑部省弾正台を廃止し司法省を設置する。十四日廃藩置県行われる。十八日文部省を設置する。二十七日民部省を廃止し大蔵省の職能を拡大する。二十八日陸軍条例を制定する。二十九日太政官制を改正する。同日日清修好条約成立する。
◎八月九日斬髪廃刀を許可する。二十日四鎮台八分営を設置し解体、鎮台常備兵に再編する。
◎九月四日田畑勝手作を許可する。八日海軍条例を制定する。
◎十月三日宗門人別帳廃止を布達する。八日岩倉具視ら欧米視察に出発する。十二日大蔵省兌換証券発行を布告する。
◎十一月二十二日全国を三府七十二県とする。二十七日県治条例を頒布し旧貢租を引き継ぐ。
明治五年 壬申(ミズノエサル・・・1872年の記録)
【巣郷本の記録】
この年は何かにつけ山林地境の吟味がなされた。東西南北何百何十何間、坪(面積)は何千何百坪か細かく調べられた。青木(杉、松などの針葉樹)何百本、雑木は何百本。樹の太さ廻り五尺(約、167㎝)は何本、二尺(約、67㎝)廻りは何本というように調書に書き留められた。
この年から山林に限らず、田畑の収穫高、開墾地など残らず調書に書き留められた。これらは秋の内に実施された。ついで田畑苗代の面積、東西何百何十間、坪何百何十坪と調書に書き留められた。
この年の十二月二日暦が改まり旧暦(陰暦)から新暦(陽暦)になり、一月一日となった。正月の御年始をした。銭両替は天札(兌換紙幣)一両は十貫文(一貫文は千文)。光銭(金又は銀を含んだ一文銭)一文は十文であった。金の価値は天札、新貨銭とも一両は十貫文ずつで両替された。もともと「じく銭」(びた銭・粗製乱造の銭)は百六十文で光銭十文代であった。「べに四文銭」(銅銭)は八十文、光銭で十文代であった。
この年より郡長という者は廃止となり、区長というお役人様が新町の代官所の役所に着任勤務された。この年より盛岡県は岩手県となった。村長は戸長となった。県に直々に御用参りをすることになりその費用は少なくなかった。この年、作物は上作であった。
明治五年から「此歩兵」(徴兵制か)初まる。明治十三年同村高橋長右エ門三男万助という者は二十二歳で青森に引き上げられ、明治十六年御用(任務)済みになり帰った。その翌年より三カ年中、二十一日の御用(任務)にて引き上がり、又三カ年が済んだところで任務はなくなった。三カ年の中に戦があれば行って任務につかなければならない予定である。
【岩手県史―第十二巻(年表)より】
『県外事項』
◎一月二十九日卒の身分廃止、皇・華・士族・平民の四となる。人口調査を実施し戸籍簿を編成する(壬申戸籍である)
◎二月十日 旧藩禄券売買及び帰田法を差し止める。十五日田畑永代売買を解禁する。二十八日兵部省を廃止し陸海軍両省を設置する。
◎四月九日 庄屋・名主・年寄を廃止し、戸長・副戸長を設置する。四月二十五日僧侶の肉食妻帯蓄髪を許可する。この月教部省三条教則を発令する。
◎七月四日大蔵省達をもって全国一般に地券(土地所有権を照明した証券。この券記載の地価に基づき地租が賦課された。土地台帳の整備に伴い89年廃止。地券状。)を交付する。二十日諸道とも伝馬制を廃止する。
◎八月三日学制を頒布する。五日租税寮内に地租改正局を設置する。二十日諏訪に機械製糸創始される。三十一日農民間の身分制を禁止し職業の自由を許す。この月田畑貢米など全て金納を許す。
◎九月七日東京京都間電信開通する。十三日品川横浜間鉄道開通する。
◎十月二日 僕婢娼妓解放を布告し人身売買を禁ずる。
◎十一月太陽暦を採用、明治五年十二月三日を明治六年一月一日と改正の旨布告する。
◎十二月一日徴兵令を頒布する。二日大分県下に農民一揆起こり処罰者二万八千人に達する。
杜父魚文庫
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