6990 今の社会を如何に正すべきか 加瀬英明

5千円札に樋口一葉の肖像が、あしらわれている。一葉は本名をなつ、奈津とも、夏子とも書いた。なつは明治5(1872)年に、東京府の下級官吏を父として、府庁舎の長屋で生まれた。父は甲斐(かいの)国(くに)(現在の山梨県)の農家の子で、明治元年の11年前になる安政4(1857)年に、江戸に出てきた。
なつが17歳の時に、父が事業に失敗して多額の借金を残して、病死した。そのために、母と妹をかかえて、針仕事や、洗い張りなどの内職によって生活を支えて、不遇な生涯を送った。明治29(1896)年に、25歳の若さで肺結核で亡くなったが、明治女流文学の第1人者となった。
5千円札の肖像は、たった1回だけ写真館で撮った写真が、もとになっている。しかし、顔から陰翳を取り除いてしまって、平面的なものにしたために、もとの写真の理知的で蠱惑(こわく)的ですらある、美貌が伝わらない。
なつの学歴は、11歳で小学高等科を首席で卒業した。幼時から父によって感化されて、古典に親しみ、あのころの暗い光のもとで読書したために、強度の近眼になった。父は娘の天分に気づいて、なつが14歳の時に、高名な歌人が経営する塾に預けた。
あの時代の女性だったので、意志が強固で、忍耐強く、向上心に駆られていた。
一葉の作品は、明治の前半の時代の人々がどう生きたか、庶民の生活を生きいきとした筆致で描いている。幕末に開国してから、文明開化の容赦ない高波が日本社会を洗っていたが、まだ多分に徳川時代の生きかたが人々の物的、精神的な生活を律していた。
なつの父は農家の出身だったが、古典を好んだ。いったい、今日の日本で、小学校4年を終えただけなのに古典を学び、17歳の少女が細腕で一家の生計を支えるようなことが、考えられるものだろうか。 
家族のために自分を犠牲にするのは、当然のことだった。隣人であれ、人々は助け合った。明治の日本は貧しかったが、精神性が高い社会を形成していた。
今日の日本では、物質的な豊かさが満ち溢れて、人々がかえって貪欲になっている。そのために、共同体であるべき社会が壊れつつある。
人々が己(おのれ)のことしか顧みず、つまらない欲得によって、休みなく駆り立てられているために、焦(い)ら立ちやすい。若者までが心が疲れて、安易な癒しを求める。
このところ日本では、高速道路がひろがるごとに、人の心が狭くなってきた。スーパーや、レストランが立派になるのにつれて、家庭の食事が貧しくなった。機能的なマンションがつぎつぎと建てられるようになったのに、隣人への親密感や、責任感がなくなった。
欲しいものが、何でも手に入るようになったのに、希望だけがなくなってしまった。豊かな社会が到来したというのに、希望がないのはおぞましい。
博物館で仏像がガラスケースのなかに、展示されている。歴史を通じて、仏像は拝むものだった。いつから美術品として展示されるようになったのだろうか。仏像をこのように扱って、よいものなのかと思う。
仏像を安置するのなら、線香を焚いてほしい。もっとも、そんなことをいったら、「消防法によって禁じられている」といって、突き放されよう。
賽銭箱を置いてほしい。だが、やはり拒まれるはずだ。公立博物館の館員が出てきて、「法律によって、特定の宗教を支援することは許されない」と、説明することだろう。
仏像を人々の好奇の目に曝す、見世物にしている。ほとんどの人がケースに押し込められた仏像の前に立っても、線香も、灯明もあげないことに違和感を覚えない。刹(せつ)那(な)にしか、関心がないのだ。
仏像には先人の祈りが、宿っている。私はけつして宗教心が篤いほうではないが、仏像に向かうことがあれば、先人の心を思って軽く合掌することにしている。
じきに、12月になる。私の事務所があるビルのロビーに、大きなクリスマス・ツリーが飾られている。日本ではキリスト教徒が少ないから、人々に散財を促す商業的なものだ。だが、今日の日本人に4月8日といっても、お釈迦様が生まれた花祭と結びつける者は、僅かである。5、60年前なら、子供でも知っていた。
日本人の生活から、神性が失われている。私が中学生だったころまでは、都会の家でも竈(かまど)の上に神棚や、神社のお札(ふだ)があったものだった。竈が炊飯器や、電子レンジになったが、お札は忘れられるようになっている。
先人たちは慣(なら)わしを大事にすることが、まともさを保つために大切なことを、直感的に知っていた。いまでは、何もかにも電気洗濯機に一緒にほうり込むが、私の母の時代までは上半身と下半身の着衣を、盥(たらい)を上バケツと下バケツとに分けて、洗ったものだった。
合理的でないといっては、ならない。長い時間をかけてつくられた、細々(こまごま)とした慣(なら)わしが人々を結んでいた。
いまの人々は、なぜなのか能率を重んじて、急いでいる。家族の絆(きずな)はゆったりとした、無限と思われる時間を共有することによって、もたらされる。家族や恋人は、能率とは無縁だ。ところが、家族というものの1人ひとりがいつも急いでいるので、団(だん)欒(らん)する暇がない。
急ぐほど、心が傷つく。四季が巡るたびに、種が芽をふき、花が開き、実を結ぶ。そのためには、有機的な生きた時間が必要だ。
急いではなるまい。人も生きているから、心を育(はぐく)むためには、ゆっくりとした時間を必要としている。私は仕事のために、自動車や、電車や、航空機を利用するが、そこで過す時間は機械的で、無機的なものだ。それに対して、歩く時間は有機的だ。
今日の物的に豊かな社会では、孤独に苦しむ人が増えている。人は先天的に1人では、生きてゆけない。心を分かち合うことによって、幸わせになる。人は互いに導き合い、励まし合わなければならない。
人は力を合わせることによって、はじめて力をえる。神仏に合掌する所作は、人と人が合力(ごうりょく)する形をあらわしているにちがいない。
 
この夏に、日頃、敬愛するS先生が、暑中見舞に見事な箒(ほうき)を贈って下さった。部屋掃きの箒である。先生は「老女ですよ」といって謙遜されるが、高齢にもかかわらず教育者として活躍されている。このような箒を手に持ったのは、25年、30年振りのことだろうか。
電気掃除機で掃除したのでは、心がこもらない。箒は心の延長だった。箒は心の塵(ちり)も、掃いたものだった。いつのまにか、婦功とか、婦徳といった言葉が失われた。婦という字は、女性と箒が組み合わされている。
私は子供心に、母が箒で夏座敷を掃いているところを思い出した。冷房とコンクリートのおかげで、夏木立、夏陰、夏(なつ)扇(おうぎ)、夏掛け、夏座敷をはじめとする、涼しげな言葉も、忘れられてしまった。
家の縁側に人が集まった。小さな庭には打ち水がされた。家の前の路地には縁台が置かれて、近所衆が涼しげなステテコを履いて、会話や将棋に興じて、縁を深めたものだった。
いまは、夏服といって、夏(なつ)衣(ごろも)といわない。私たちの身近にあった、あの夏はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。日本人が繊細さを失ったのだ。
主婦が家の前の路地を早朝に掃いて、清々(すがすが)しい箒(ほうき)目(め)をつけたものだったが、醜いアスファルトによって覆われてからは、朝の詩がなくなった。詩は心の囁きである。目で読むものではなく、心で聞くものだ。
あのころの日本人は真面目(まじめ)で、補(おぎな)いあい、援けあった。希望と夢を分かちあった。報恩と感謝の気持ちを、かたときも忘れることがなかった。
日本人の徳は和を求めるとともに、自らを厳しく律することから発してきた。
日本の礼儀作法は和装をとっても、立ち居振る舞い、武道をとっても、自制することにある。今日の大人も、子どもも、マナーをまったく弁(わきま)えていないが、和を重んじることがなく、自制することがないからである。
かつて日本語は世界諸語のなかで、心尽くし、心合い、心扱い、心配り、心入る、心残り、心清し、心前(こころまえ)、心繕(づくろ)い、心様(ざま)といったように、心がついた言葉がもっとも多かった。私たちは、心の民だった。
国語を「話す、書く、読む」ことによって、学ぶという。しかし、それでは国語を学ぶことにはならない。かつてこの国では、言葉は人から人へ意思を伝えるためだけではなく、心を分かち合うために用いられた。
言葉の奥にあるものを、忘れてはなるまい。言葉には、先祖の贈物である、高い価値がこめられている。言葉には先祖の願いと、知恵が宿っている。言葉を乱したら、社会を支えてきた精神を壊すことになってしまう。
先人たちが長い歳月にわたって、1つ1つの言葉に、喜びや、涙とともに、こめてきた意味や、情感を捨ててしまったら、中身のない、空疎な記号を教えるだけのことになってしまう。
ついこのあいだまでは、言葉のなかに躾けが宿っていた。言葉は人の思考の拠りどころであり、人をつくっている鋳型である。テレビや、新聞、雑誌だけではなく、人々が日常会話のなかで、根がない外来のカタカナ語を振りまわしているのは、心を損ねる。
このごろ、親を「パパ」「ママ」と呼ぶ家庭が多い。なぜ、「とうさま」「かあさま」と呼ばせないのだろうか。「トウチャン」「カアチャン」でも、親を慕う子の想いがこもっている。パパ、ママでは、ポチとか、ポピとか、親を犬猫扱いにしているのと変わらない。
人は伝統と現代が交わる点に、生きなければならない。今日という日は、縦(たて)糸(いと)である伝統と、横糸である現代によって、紡(つむ)がれている。伝統を捨てて、現代だけに生きると、人は大切な根を失って、漂うことになる。
現代はめまぐるしく、変わってゆく。伝統精神を尊ばなければ、まるで強風の日の糸が切れた凧(たこ)のようになってしまう。国も社会も、漂泊することになる。
日本人だったら、「昔、そのむかし、お爺さんとお婆さんがいました。お爺さんは山に柴刈りに、お婆さんは川に洗濯に‥‥」という『桃太郎』の咄(はなし)を知っていよう。
芝は、ゴルフコースの芝ではない。柴は山野に群生する雑木で、ついこのあいだまで日本は貧しかったから、炊事(すいじ)や暖(だん)をとるために薪(たきぎ)とした。
私たちは新聞や、テレビで、GDP(国内総生産)が何パーセント上ったとか、下ったという報道が行われるたびに、一喜一憂している。
『桃太郎』の咄(はなし)は、多くを教えてくれると思う。山に柴刈りに精をだすお爺さんと、川で洗濯するお婆さんは、GDPに貢献することが、まったくなかった。
もし、棲家(すみか)に電子レンジや、炊飯器など電気製品があったなら、そのような製品を買い込んで、電気、ガス、水道を消費することによって、GDPを押しあげたはずだ。だが、2人は電気器具は持っていなかった。
お婆さんは洗剤を買わず、洗濯機や、乾燥機を使って、水道水や電力を消費することもなかった。洗濯物を竹竿にかけて、晒(さら)した。
お爺さんとお婆さんは、見えるものよりも、見えないものを大切にしたにちがいない。
江戸時代の日本は、石田心学で知られる石田梅岩や、二宮尊徳をはじめとする、優れた経済学者を生んだ。二人は農民だった。あのころの経済学は、道徳学だった。西洋に目を転じれば、『国富論』のアダム・スミスは、グラスゴー大学の倫理学教授だった。
西洋でも物質的な豊かさが増大した結果、経済学が飽くことがない、欲望の学問となった。いま、経済学を心学と呼ぶだろうか。
妻や子供が家事を助けて、無償で行う家庭内労働は、先の爺(じじ)婆(ばば)の暮しのように金銭が介在しないから、GDPを脹(ふく)らませない。
さまざまな場でボランティアとして、無償で働く若者や、高齢者が増えているのは喜ばしい。無賃労働は金銭に換算されないから、GDPに関(かか)わらない。
結局のところ、GDP信仰は金銭を何よりも大切なものとするものだ。
豊かさは、呪いなのだろうか。私は漢字のなかで、貧という字を好んでいる。太古の時代には、貝が貨幣だった。貧は小さな貝を、分かち合うさまだ。むろん、心も分け合った。
昭和54(1979)年に、日本で先進七カ国(G7)サミットが、はじめて催された。その後、ロシアが加わって、G8になっている。大平内閣の時で、私は外相の顧問をつとめていた。
赤坂迎賓館の前庭で、ホスト国の大平首相を囲んで、六カ国の首脳とヨーロッパ共同体(EU)事務総長が記念撮影に収まった。今日でも、日本だけが有色人種の国である。
 
私は日本は偉い国だと、思った。だが、同時に、日本だけが白人と並ぶ国となったのは、他のアジア・アフリカの民と違って、模倣することに長(た)けていたからではないかと、訝(いぶか)った。
そして、明治維新を行った先人たちは、3つの目的を持っていたにちがいないと、思った。日本の政治的独立を全うすること、経済的な独立を全うすることで、3つ目がもっとも大切だった。日本の文化的な独立を、守ることだった。
しかし、西洋に追いつき、追い越そうと熱中して、洋化に努めるうちに、目的と手段を混同するようになってしまったのではないかと、思った。日本は西洋を生(なま)半(はん)可(か)に真似た国に、なっている。
なつは明治29年に世を去った。その前年に日清戦争が、日本の勝利で終わっている。なつは克明な日記を遺したが、しばしば内外の情況に触れて、日本の将来を憂いている。
病没する前年といえば、今から125年前になる。なつは日記に、「安(やす)きになれておごりくる人(ひと)心(ごころ)の、あはれ外(と)つ国(くに)(註・西洋)の花やかなるをしたい、我が国(くに)振(ぶり)のふるきを厭(いと)ひて、うかれうかるゝ仇(あだ)ごころは、流れゆく水の塵(ちり)芥(あくた)をのせて走るが如(ごと)く、とどまる處(ところ)をしらず」「流れゆく我が国の末いかなるべきぞ」と、記している。
5千円札を手に取るごとに、なつの言葉を思い出してほしい。
 
杜父魚文庫

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