吉田茂さんが首相に担ぎ出されたのは、敗戦から九カ月後の一九四六(昭和二十一)年五月である。政治家でも政党人でもなく、旧満州・奉天の領事官補を振り出しに最後の駐英大使まで、吉田さんは三十二年間の外交官生活を送った。そのまま引退が普通だが、突然の登板となったのは、東久邇、幣原両政権で外相をつとめたことと、すでに組閣作業に入っていた第一党の自由党総裁、鳩山一郎さんがGHQからパージ(公職追放)されたからだった。
吉田さん、この時すでに六十七歳、東京・麻布の外相公邸に住んでいた。三女で秘書役の麻生和子さんが書き残している。
〈夜中に寝つかれないまま、床を抜け出して外を散歩する父の姿に何度か驚かされたこともあります。なんとかしなくてはいけない、そうした気持ちにかりたてられていたのでしょう。このころの父の顔には、晩年の父には見られない険しさがありました。
夕方暇になると、外に出てよくいっしょに散歩をしました。麻布から国会議事堂まで、みごとなくらいなにもありません。議事堂だけがぽつんと立っているのが見えるだけです。
そんな散歩の折りに、父はくりかえしいいました。「見ててごらん。いまに立ち直るよ。必ず日本人は立ち直る」
これは、私に聞かせるというよりも、なにかこう一生懸命に自分を励ましているように聞こえました。〉(『父 吉田茂』光文社・九三年刊)
当時、小学生だった孫の麻生太郎元首相も、祖父が、「これから日本はよくなる。必ずよくなる」と繰り返し言っていたのを覚えている。
吉田さんは戦後日本のレールを敷いた指導者だ。憲法・講和・安保の三本レールである。そして、「日本はよくなる」という信念どおり、驚異的な速度で繁栄を遂げた。GNP(国民総生産)が米国に次いで第二位の経済大国になったのは一九六八(昭和四十三)年、敗戦から二十三年というスピードぶりだった。
しかし、七四年には、田中政権下で狂乱物価に見舞われ、戦後初のマイナス成長(実質経済成長率、マイナス〇・五%)になる。ジグザグコースをたどりだした。九〇年代に入ると、三大崩壊が日本を直撃する。株価の暴落によるバブル経済の崩壊(九〇年)、ソ連邦が消滅し、米ソ冷戦体制の崩壊(九一年)、さらに、自民、社会両党の退潮による自・社五五年体制の崩壊(九三年)だ。
◇政治の迷走にうんざり与党は内紛のまま越年
それ以来約二十年、政治、経済、国際社会の構造変化に日本は能動的に対応できなかった。波間にただようような漂流を続けてきたと言っていい。この間、海部俊樹さんから菅直人さんまで十四人の首相が目まぐるしく登場したことが、漂流の深刻さを物語っている。平均一年四カ月の在任期間では、継続的に大型の課題に取り組むことなど望むべくもない。
気がついてみたら、中央、地方の債務残高が千兆円に近づいていた。借金超大国である。他国に借りているわけではないが、借金は借金であり、国家財政は巨額の金利に悩まされどおしだ。
敗戦のころ、吉田さんが、「日本は必ずよくなる」と自分に言い聞かせ、国民もそう確信して汗をかき、駆け抜けた。しかし、二〇一一年の新年、人々は、よくなる、ではなく、「悪くなるのではないか」という予感の中で暮らしている。予感というのは正確ではなく、昨年も随所で劣化現象を実感させられた。
〈メルトダウン(溶融)〉という単語が日常の会話のなかにひんぱんに出てきたのも昨年の特徴だった。なかでも、政治の相も変わらぬ迷走にはうんざりさせられた。与党の民主党は内紛に終始したまま越年だ。
文人でもある自民党の伊吹文明元幹事長作の新春パロディー百人一首を拝見すると、まずこんな一首がある。
世論調査は移りにけりな いたずらに尖閣国後 おくれとる間に 菅太政大臣 以羅
(花のいろは移りにけりな いたづらに我が身世にふる ながめせし間に 小野小町)
昨年のイラ(以羅)菅首相による対中、対露外交の拙劣と、それによる内閣支持率の急落を皮肉っている。沖縄・普天間飛行場移設問題も中ぶらりんのまま年越しになった。今年は外交小国の汚名を少しでも挽回しなければならない。
また、次の一首も。なげけとて世論やものを 思わする怒り顔なる わが涙かな 前左大臣 一郎
(なげけとて月やはものを 思はするかこち顔なる わが涙かな 西行法師)
金銭疑惑解明の国会招致を求める世論を無視するかのように、民主党の小沢一郎元代表は言を左右に招致を拒み続け、これまた越年だ。五五年体制を崩壊に導いたのも小沢さん、それ以後の十七年余、政治迷走の中心に必ず〈怒り顔〉の小沢さんがいた。
今年は小沢問題にけじめをつけなければ、政治の混乱は収拾がつかなくなり、国益を著しく損なう。
番外の一首も。あれこれと世論調査が わかれては知るも知らぬも 与党への関 谷垣太政大臣 心待
(これやこの行くも帰るも わかれては知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸法師)
自民党も展望がひらけているわけではない。六七年十月、吉田さんが八十九歳で没してから四十三年、多分、敗戦時と同じ険しい顔で、「日本をよくしろ」と憤っておられる。(サンデー毎日)
杜父魚文庫
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