本格的な議論が起きる年ではないか、と私は思っている。起こさざるをえないところにきている、という意味だ。
今年はどんな年になるのだろうか、少しでも景気がよくなってもらわないと困る、とだれもが言う。しかし、それは議論ではなく、不安の表明にすぎない。中国や北朝鮮はどう出てくるのか、日本の安全は大丈夫だろうか、と言う。これも議論の出発点ではあるが、議論にはなっていない。
世間の不安、疑問に対しては、政治家、学者、評論家、コメンテーター、あるいは新聞の論説委員たちが論を述べるのが通常だ。だが、これらの論は、参考データではあっても国民的な議論とはまったく違う。
政治リーダーは、対応に苦慮したり行き詰まったりすると、決まって〈国民的議論〉の必要を訴えてきた。しかし、一種の逃げ道で、空疎な発言にしか聞こえない。国民的議論などはあったためしがなく、しょせん国の方針は政治家の党利党略や政権の保身、ポピュリズム(大衆迎合)的発想のもとで決められてきたからだ。
民主党政権は〈国民生活第一〉をメーンスローガンにしている。菅直人首相はじめいまの政権党が国民の利益を考えていないはずはないが、しかし、国民の多数はこの当然すぎるスローガンをほとんど信用していない。民主党は信用させることに失敗している、と言い換えてもいい。
理由は明瞭だ。まず、国民生活を第一に考えている真剣さが伝わってこない。次に、第一に考える体系的政策が見えてこない。そして、すべてを束ね推し進めていくトップリーダーに人間的迫力が欠けているからだ。
しかし、今年はそうした政治家頼みの惰性を続けるのではなく、国民側が議論を起こし、方針を決めさせるターニングポイントの年になるに違いない。それしか方法がないことに、みんなが気づき始めている。議論はさまざまな場所、さまざまな形で、また家庭で個々人の胸のうちで起き、選挙の票、デモなどの大衆示威行動、あるいは世論調査の数字などになって表れるだろう。
待ったなしの国難的状況であり、政治家だけに任せておけないという〈国民意識の改革〉元年になるはずだ。菅さんは〈平成の開国〉元年と訴えているが、開国の手立ては、国民の直接参加を抜きにしては講じられない。
そんなことを漠然と考えながら、大晦日から元日にかけ、山口県萩市に一泊した。里帰りしたついでの寄り道だが、この町には〈第一の開国〉である明治維新のにおいがまだ色濃く残っていて、いまの時期、心ひかれるものがある。
◇憂国の情に思いを馳せ それぞれ論を深めたい
いずれも何度目かになるが、小雪の降るなか、まず松陰神社に詣でた。鳥居の額は吉田松陰(一八三〇~五九年)没後百年の一九五九年に作り直され、文字は岸信介元首相の書、また境内に維新百年の六八年を記念して建てられた石碑があり、
〈明治維新胎動の地〉の文字は佐藤栄作元首相が書いたという。山口県が誇る兄弟首相の墨痕を同時に見ることができる。
「門下生の双璧は久坂玄瑞と高杉晋作、松陰がかわいがったのは前原一誠……」などと言われる志士特訓の舞台、松下村塾の質素な平屋も境内でひっそりと寒風にさらされていた。
また、松陰の没後百五十年に当たる二〇〇九年十月二十七日(処刑の日)、境内に開館された宝物殿〈至誠館〉を初めて参観した。安政六年のこの日、松陰は江戸で処刑されたが、前日の二十六日に書き上げた塾生や兵学門下生への遺書〈留魂録〉の現物が陳列されている。冒頭には、
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
二十一回猛士の有名な和歌。この署名は、神社のすぐ近くの高台にある墓所、一メートルほどの小さな自然石にも、〈松陰二十一回猛士墓〉と刻まれている。遺言に沿ったそうだが、〈二十一〉には諸説あって、〈吉〉の上部の十一と〈田〉のなかの十を足したもの、という説が有力という。死してなお幾回も猛士たらん、と訴えたのだろう。
さらに、高杉晋作、木戸孝允の誕生地、伊藤博文元首相旧宅、毛利家歴代の墓所がある東光寺、萩城跡などを巡ったが、町全体の沈潜した静けさと古めかしさが、逆に幕末維新の荒々しい息づかいを秘めているように感じられた。
帰りのバスターミナルで、萩限定と宣伝している〈吉田松陰カレンダー〉を五百円で買う。松陰の詩文が毎月記されており、春四月には、これも有名な、
かくすればかくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
の和歌。安政元(一八五四)年、二十五歳の松陰が江戸獄から郷里萩の兄・杉梅太郎に送った書簡のなかにある。下田から江戸に護送される途中、高輪・泉岳寺の前を通り、赤穂義士と自分の身を引き比べ詠んだという。カレンダーには、
〈鎖国の世の中、アメリカの軍艦に乗って海外渡航を企てれば、失敗して捕えられ罰せられることは分かっていながらも、思いがあふれ、止めることなく決行したのは、至誠を以て国に報ずる強い志があったからである〉という和歌の解説が付記されていた。
松陰が、ペリーの黒船に乗り込み、アメリカの開国要求に対して自分の目で海外の実情を確かめたいと考え、実行に移したのは国禁を犯したことになる。開国という革命的な試みは、捨て身の決起抜きには果たせないと松陰は教えたのだった。
黒船事件から百五十七年である。それほど遠い出来事ではない。今年、月並みな議論ではなく、松陰の憂国の情に思いを馳せながら、それぞれが論を深めたい。
<今週のひと言>さっさと片づけろ、民主の内紛。(サンデー毎日)
杜父魚文庫
7046 元日、「萩」の静けさのなかで思う 岩見隆夫

コメント
最初の開国は明治維新である。二番目の開国は戦後である。三番目の開国はこれからである。
考え方にはいろいろある。自分たちの考え方が理に合わないものであることを証明するのは難しいことである。だが、それが証明できなければ、おかしな考え方を改めることも難しい。
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