首相は通常国会冒頭で施政方針演説を行うことになっている。これは年に一回だ。アメリカ大統領の一般教書演説に匹敵する。
日本の場合は通常国会以外にも首相が演説するが、こちらは所信表明演説と呼ばれる。
施政方針演説は内外政策全般について、目指すべき方向や考え方を総合的に提示するものだ。歴代の首相にとって、最も重視する演説といっていい。
それが、菅首相の場合、施政方針演説に先立って、外交に関する演説を民間団体主催の会合で行った。こんなことは初めてだ。
施政方針演説の柱に据えなくてはならないはずなのだが、あえてこういうことをやったのは、この首相のパフォーマンス重視の姿勢のあらわれか。
ならば、天下をうならせるような内容だったのかというと、どうもそういう格調の高いものではなかった。いってみれば、外交問題もきちんと考えていますという「アリバイ工作」か。
日米基軸だのアジア外交の新展開だの、当たり前のことばかりで、目新しいものはない。というよりも、鳩山前政権に続いて、外交・安全保障分野で取り返しのつかない失態をしでかしてしまったことへの反省も釈明も見られない。
こんなことならば、やらないほうがよかった。支持率が激減していったのは、鳩山前首相は「普天間迷走」、菅首相は「尖閣迷走」にあった。
そこに共通するのは、国家の責務とはいったいどういうものかという重い命題にかかわる認識が決定的に欠落していたことだ。
国家観、国家戦略が見えてこないところに、鳩山、菅両政権のどうしようもない未熟さが浮かぶのだが、あれほど批判されても、菅首相はいまだに分かっていないらしい。
尖閣周辺で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりし、いったん逮捕した船長を釈放してしまったり、現場のビデオを公開せず海上保安官のネット投稿によって明らかにされてしまたりという一連の不手際を、どう認識しているのか。
菅首相はいまだにそのことを明らかにしていない。菅―仙谷ラインの最大の欠陥がそこにあったのだ。
問題のビデオは船長を逮捕した場面がない。あの漁船をどうやってつかまえ、海上保安官が乗り込んでいってどのように逮捕したのか、そこが明白ではない。だから、海上保安官が海に転落し、モリで突かれたなどという話が飛び交うことになった。
これはいまからでも遅くはない。中国の所業を明らかにするためにも、全面公開してはどうか。
あのとき、即座にビデオを全面公開して、中国側の非を全世界に伝えていたら、日本が完全に優位に立てるはずだった。
弱腰(仙谷氏は「柳腰」と称したが)の対応に終始した結果、日本側が得たものはあったのか。レアアースの通関サボタージュ、フジタ社員の拘束など、こういうとき、中国はなんでもやる国であるということが明白になったのだ。
国連の場でビデオを公開し、いったん中国を国際非難の矢面に立たせる。妥協工作が必要なら、それからやればいい。それが当たり前の主権国家の基本姿勢だ。
そういうていたらくだから、ロシア大統領に北方領土を視察されたりもしてしまう。
「寄らば斬るぞ」の構えがないから、そういうことになる。あの当時、日中、日ロの首脳会談実現を最優先させ、とくに日中首脳会談でペーパーを読み上げた菅首相の情けなさを多くの国民が目撃した。
問われるのは、なぜそういうことになってしまったのか、外交・安保の基本認識である。わざわざ外交演説をやるのであれば、その肝心なところを堂々と披歴しなければ、まったく意味がない。
杜父魚文庫
7081 何のための外交演説か 花岡信昭

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