英米と決別してナチス・ドイツと同盟関係を結んだ戦前の日本の歴史については、多くの研究書が著されているので、私が駄文を連ねる必要がない。戦後、平凡社の歴史事典編集部でアルバイトの原稿取りを二年ほどやったことがある。
ドイツ近代史の林健太郎氏が東大助教授時代だったが、再婚してたしか荻窪に住んでおれたので、よく伺った。羨ましい様なご夫婦だったので、つい長居することが多かった。またドイツ現代史の村瀬興雄氏のところにもよく通った。1977年に中公新書から発刊した「アドルフ・ヒトラー」は、村瀬氏の名著だと思う。たしか吉祥寺か国立に住んでおいでだった。
敗戦後、まだ数年しか経っていない時代。今は麹町にある平凡社が東京駅近くの八重洲付近の雑居ビルにあった頃である。歴史学会は唯物史観の全盛時代で、林氏のような実証的歴史観は少数派であった。村瀬氏を唯物史観の歴史家というのはお門違いであろう。
20世紀のドイツの歴史家で泰斗といわれたフリッツ・フィッシャー (Fritz Fischer、1908年5月5日 – 1999年12月1日) の影響を受けた方である。フィッシャーは1939年にナチ党に入党したが、1942年に離党している。それだけにドイツ国家社会主義については、誰よりも実証的である。
村瀬氏は歴史事典の原稿を書く手を休めて、フィッシャーの歴史観を語ってくれた。度の強い眼鏡で睨まれている感じで、恐縮しながら個人教授を受けている観があった。ナチス・ドイツの起源は第一次世界大戦で、勝者が法外な賠償を敗戦ドイツに課して、それに反発したドイツ国民が国家社会主義に向かったという論が多い。ヴェルサイユ体制の起源論である。
フィッシャーは、これを否定してドイツの権力エリートの長年にわたる野望の結果である、と論じている。
前置きが長くなった。江尻進氏(日本新聞協会元専務理事)が1995年に「ベルリン特電」という本を書いている。1995年の著作である。江尻氏は同盟通信社のベルリン特派員として昭和14年(1939)からドイツ敗戦まで六年間余り動乱のドイツにあった。ベルリン大空襲を体験し、ソ連軍がベルリンに突入し市街戦が始まる直前に脱出して、ドイツ南部で進駐してきた米軍に救われた。
ヨーロッパを席巻したナチス・ドイツが、独ソ開戦でレニングラード包囲戦、スタリーングラード攻防戦で敗北したドイツ軍が総退却していく過程を江尻氏はベルリンにあって日本人の眼で記録している。歴史の一ページなのだが、現場で見た記録は臨場感があって貴重である。
ベルリンから見ていると、同盟国だったドイツが日本に期待した面は意外と少ない。日本の国内で軍部を中心としてドイツを賛美した空気とは違う点が垣間見える。ヒトラー礼賛論者だった大島駐独大使のところには、緒戦で有利だった時には戦況報告が間断なく入っていたが、不利な状況になると戦況報告が途絶えた。ドイツ国内でも国民の士気が著しく低下していくのが、江尻氏は嗅ぎ取っている。
だが大島大使は「君たちは反独だから、そんなふうに見えるのだ」と在ドイツの記者団に反駁して、客観的な事実を認めようとせずに、東京にドイツが勝つと打電し続けていた。ドイツがそれほど期待しなかった日本との同盟関係を、日本が過大に評価してしまったのは、ヒトラー礼賛論者だった大島大使の情報に踊らされた面が大きい。
杜父魚文庫
7086 ヒトラー礼賛論者だった大島大使 古沢襄

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