7090 「戦時のリーダー」を考える 岩見隆夫

この国のいまは、銃火こそ交えていないが、一種の戦時である。のどかで平穏な平時では、少なくともない。従って、リーダーの資質を語る場合も、戦時宰相論でなければならない。菅直人首相の夫人、伸子は昨年夏刊行した著書で、
<吉田茂とか鳩山一郎とか、昔の総理大臣と菅直人が、どうも一致しない。何か違う。田中角栄さんなどは、総理になったのが54歳で、いまの菅より10歳も若かったなんて信じられません。私の持つ「総理大臣のイメージ」にあてはまるのは、中曽根康弘さんまでですね。菅も中曽根さんを参考にしているようです>と率直に書いた。
中曽根には就任後、教えを請うている。その愛弟子(元秘書)の与謝野馨を、菅は経済・財政の司令塔に据えたが、すさまじいバッシングだ。
大臣病、恥を知れ、などの人格攻撃も少なくない。さしずめ、政界の嫌われ者は、1に与謝野、2に鳩山由紀夫といった趣だ。
しかし、与謝野への厳しい批判はそれぞれわからないではないが、平時のつぶやきのように聞こえる。人事の是非を言い争う悠長な場合か、と世間は冷ややかだ。
そんなことを考えている時に、先日、戦時にふさわしい題名の「戦場の田中角栄」(毎日ワンズ刊)という本が出た。著者の馬弓良彦はかつて私の同僚、毎日新聞で田中派を担当する政治記者だった。すでに故人である。
めくっていると、田中が番記者だけに語った角栄語録の数々が出てくる。これが面白い。退陣(74年11月)後の懇談の席で、田中は頭をかきながら、
「いま暇になって数えてみたら、総理になった時は54歳で、自民党議員の平均年齢以下だった。この若僧め、と思った人もいただろう。まあ、よくも殺されなかったものだな」と苦笑いしたという。田中には、命を懸ける、という雰囲気がいつもあった。馬弓は、
<田中の頭脳の切れ味は、高級官僚出身者や名望政治家をはるかに凌駕(りょうが)していた。そして、比類なき「戦(いくさ)上手」でもあった。田中にとっては、政界もまた戦場であったに違いない>とつづっている。刀を振りかざし疾走する田中の戦場意識だ。
戦上手、の一例のようにも思われるが、やはり辞任後の角栄番記者との雑談で、日ソ首脳会談(73年10月)の打ち明け話をした。交渉相手だったソ連のトップ、ブレジネフ書記長のことを、田中は、
「あれは、自民党で言うならば、総務会長どまりの政治家だな」と辛い評価をしたあと、こう続けたそうだ。
「あの時、実は特別機に札束を積んでいったんだよ。北方領土で色よい返事があれば、樺太を買い戻してもいい。話の成り行きでは、そう提案しようと思ったんだが、先方の器量がそこまでなかった。いや、これはホントなんだ」
拝金主義者の奇抜な札束外交、そんなことがかなうはずがない、という批評もあるだろう。しかし、田中らしい。
また、後藤田正晴が田中政権の官房副長官に起用された時、田中の最初の指示は、「小学校の教師の給料を10倍にする案をすぐに作れ」だった、とのちに後藤田から聞いたことがある。これも奇抜というより非現実的だが、小学校教師の優遇こそ教育改革のキメ手という発想があった。
40年前の田中には、戦時のリーダー像が強くにおって忘れ難い。突貫精神のようなものだろうか。いま、角栄的な着想と冒険心がリーダーに求められている。菅は戦時向きか。(敬称略)
杜父魚文庫

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