中国や朝鮮などの古代神話に登場する”三足烏(さんそくう)”だが、韓国の朝鮮日報が「韓国文化の中でどのように形成され、時代によってどのような変化を遂げ、現代に至ったか」という美術史を専攻する学者の著作を紹介している。
太平の世では翼をたたみ、外部からの侵入があれば翼を大きく広げる三足烏は「太陽の中の三足烏」として知られる。四世紀の高句麗古墳に初めて登場して、これが朱雀・鳳凰へと変化して日本にも伝わった。日本神話では神武天皇の東征で出てくる”八咫烏(やたのからす)”が三本足といわれた。
三本足のカラスは現実には存在しない。古代神話の世界で登場する”三足烏”が、北朝鮮の平壌・徳興里古墳や江西中墓に翼を広げて飛び立つ様子が描かれている。
アジアではカラスが啼くと「人の死を告げている」と怖れられるが、生命と夜明けを象徴する赤い太陽の中に三本足のカラスが現れると慶事をもたらす「瑞鳥の象徴」として喜ばれる。百済は高句麗の伝統を受け継ぐ同根の国家だったから、韓国に”三足烏”神話が伝わり、百済から日本にもそれが伝わっている。
<高句麗の古墳壁画によく見られる「三足烏」は、太陽の中で生きる、三本足を持った想像上のカラスだ。中国・集安の「五●墳4号墓(●は灰に皿という字、カイ)壁画には、円(太陽)の中で翼を半円形に広げて立つ三足烏が描かれている。また、北朝鮮の平壌・徳興里古墳や江西中墓には、太陽の中の玄鳥が翼を広げて飛び立つ様子が描かれている。
美術史を専攻するキム・ジュミ博士(51)が檀国大大学院史学科(考古美術史専攻)に提出した博士学位論文を基に、『韓民族と太陽の中の三足烏』(学研文化社)を出版した。本書は、丸い太陽の中に黒いカラスを結合させた日象文、すなわち「太陽の中の三足烏」が、韓国文化の中でどのように形成され、時代によってどのような変化を遂げ、現代に至ったのかを広く分析している。
キム博士は、4世紀の高句麗の古墳壁画に初めて登場する「太陽の中の三足烏」がこのような図像の枠組みを持つに至った背景には、古来から伝承されてきた太陽崇拝やソッテ(信仰の対象、または何かのお祝いのために立てる長い竿)信仰・卵生説話などの「鳥トーテム」が緊密に関係していると分析した。太陽とカラスとの関連については、高麗の文臣・李奎報(イ・ギュボ)の詩文集『東国李相国集』の「東明王篇」で、太陽の化身である解慕漱(かいぼそ=高句麗の建国神話では天帝の子で、東明王〈朱蒙〉の父とされる)が頭にカラスの羽で作った「烏羽冠」をかぶっているところに淵源を求めることができると解説している。
特に高句麗の古墳壁画以降、日象文の姿が時代によってどう変遷していったかという点は興味深い。政治的安定期や全盛期には、三足烏が円の中で翼をたたんだ姿が描かれることが多かった。これに対し、外部勢力の侵入などで自主意識が高揚した時期には翼を大きく広げた三足烏が、また極度の政治的混乱期には太陽の中から飛び立つ三足烏が主に描かれた。
例えば高句麗時代には、6世紀半ばを前後して、三足烏は翼をたたんだ姿から翼を大きく広げた姿へと変わっていった。そして高麗初期には、三足烏がいない円だけの日象文が登場したが、10世紀末に起こった契丹の侵入以降、高句麗継承意識が強く提起されるようになり、当時の首都だった開城の玄化寺碑(1022年)や、原州の智光国師玄妙塔碑(1085年)には、太陽と三足烏が結合した日象文が再び登場した。玄化寺碑と智光国師玄妙塔碑に描かれた三足烏は、翼を大きく広げて立ち、尾羽を高々と掲げ巻き上げているのが特徴だ。
キム博士は「太陽の中に見える三足烏はただのカラスではなく、慶事をもたらす瑞鳥の象徴で、後に朱雀や鳳凰へと変わっていった。韓国の日象文の伝統は、高句麗以来現在も、大統領の紋章や国璽の装飾に用いられる形で受け継がれている」と語った。また、キム博士は「生命と夜明けを象徴する赤い太陽の中に、死と夜を意味するカラスのような玄鳥を組み合わせた表現には、生成と消滅が境界なく併存する宇宙論が込められている」と解釈した。(朝鮮日報)>
杜父魚文庫
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