神武東征(じんむとうせい)は、初代天皇であるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話。この中に八咫烏が出てくるが、高句麗の建国神話・三本足のカラスとの類似が指摘されている。
神話の世界だから歴史的な事実があるとか、ないとか論争するよりもアジア各地にある神話との類似性を論じる方が面白い。歴史的な事実で論じれば、ギリシャ神話や北アジアの獣祖神話などは架空のお伽話。戦後、間もなく唯物史観が全盛の頃は、日本神話の古事記や日本書紀は軍国主義・日本の聖典として非難され、顧みられなかった。
しかし古事記や日本書紀は昭和の軍国主義が台頭する以前から、建国神話として存在し江戸時代には学者の間で盛んに論じられている。神話は神話であって、芥川賞作家の田辺聖子氏が論じたように「日本文学の出できはじめの祖(おや)」なのである。
文学の世界に歴史を押しつけるのは、豊かな想像をも破壊する愚かな試みでしかない。
<<■古事記
『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、ナガスネヒコが軍勢を起こして待ち構えていた。ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。
カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。
カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。
また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、カムヤマトイワレビコに仕えるかどうか尋ねさせたが、兄のエウカシは鳴鏑を射て追い返してしまった。
エウカシは軍勢を集めて迎え撃とうとしたが、軍勢を集めることができなかった。そこで、カムヤマトイワレビコに仕えると偽って、御殿を作ってその中に、入ると天井が落ちてくる罠を仕掛けた。弟のオトウカシはカムヤマトイワレビコにこのことを報告した。そこでカムヤマトイワレビコは、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)をエウカシの元に遣わた。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、その仕えるための御殿にまずお前が入って仕える様子を見せろ」とエウカシに迫り、エウカシは自分が仕掛けた罠にかかって死んでしまった。
忍坂の地まで来たとき、土雲の八十建(数多くの勇者)が待ち構えていた。そこでカムヤマトイワレビコは八十建に御馳走を与え、八十建に対して80人の調理人をつけ、調理人に刀をしのばせた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。
その後、大物主の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。
■日本書紀
月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。
ナガスネヒコとの戦いでは、戦いの最中、金色の鵄(とび)が飛んできてカムヤマトイワレビコの弓の先にとまった。金鵄は光り輝き、ナガスネヒコの軍は眩惑されて戦うことができなくなった。
ナガスネヒコはカムヤマトイワレビコの元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は昔天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だろう、と言った。カムヤマトイワレビコとナガスネヒコは共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物であることがわかった。しかし、ナガスネヒコはそれでも戦いを止めようとしなかったので、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺してカムヤマトイワレビコに帰順した。
■解説
解釈としては、全くの神話であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実が反映されているとする説がある。また神話学者の三品彰英により、高句麗の建国神話との類似が指摘されている。(ウイキペデイア)>>
杜父魚文庫
7098 日本神話は日本文学の祖(おや) 古沢襄
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