7106 イスラエルの英雄・ハンナの生涯 古沢襄

西村眞悟氏の文章に触れるまで、第二次世界大戦でナチス・ドイツと戦い、22歳の若さで散ったユダヤ人女性レジスタンス・ハンナ・セネシュのことを知らなかった。1988年に米国でメナヘム・ゴーラン監督のもとで映画化されていた。 原題は「Hanna’s War」。
人の生涯というのは、生きた長さではない。80歳まで馬齢を重ねた私だが、22歳の若さで高い使命感に燃えて『思いとどまらずに進め。最後まで、自由の日がくるまで。我々同胞の勝利の日がくるまで、戦い続けよ』と言い残して、ナチス・ドイツの銃殺刑に処せられたハンナの生涯には敵わない。
ハンナの処刑は1944年11月7日の朝9時ごろ。だが、その日から”イスラエルの英雄”「ハンナ・セネシュ」の気高い伝説が始まった。ハンナの詩「マッチのように」は今でもイスラエルの女性から愛されているという。
燃やされて炎となったマッチは
なんと幸いでしょう
心の核心で燃えあがった炎は
なんと幸いでしょう
そして 栄光の中で
殉教することを知っている心は
なんと幸いでしょう
燃やされて炎となったマッチは
なんと幸いでしょう
ハンナの生涯(ウイキペデイアによる)
【生い立ち】
1921年7月17日、ハンガリーのブタペストで、ハンナは生まれた。当時有名な作家で劇作家でもあった父ベラ・セネシュと、母の力テリーナの愛情に包まれ、一つ違いの兄ジョルジュと共に、何不自由のない幸せな幼年時代を過ごした。しかし、若いころから心臓病を患っていた父親のべラは、ハンナが6歳の時、33歳の若さで亡くなった。
「ハンナの日記」は、ハンナが13歳の9月7日、父のお墓参りに行った日の出来事から始まっている。少女時代のハンナは、ユダヤ人意識に目覚める16歳のあの事件の日までは、裕福な少女たちの様に楽しい日々を過ごした。楽しいパーティーの数々、すばらしいコンサートや観劇、もちろん美しいタフタの青やピンクの花のようなドレスを着て。しかし一方では、全科目に優秀な成績をおさめ、また父親に似て詩や文を書くことが大好きだった。これらの日々の出未事やニュースでうずまっている日記の中にも、未来のハンナの片鱗を見る言葉に出会う。
「わたしは並の人間でいるくらいなら、異常な人間である方がまだましだと思っているぐらい。プロの作家になることばかりを考えているわけではない。わたしが平均以上の人間というのは、必ずしも有名な人のことではなく、崇高な精神の待ち主、立派な人間のことだ。わたしは崇高な精神の持ち主になりたい。神様が許してくださるなら!」(1936年8月3日)
「信仰は人生において大きな意味を持っていると思う。現代の慨念、神への信頼は弱い者の支えであるにすぎないという概念はおかしいと思う。信仰は人を強くするというべきだ。だからこそ、人は他の支えを必要としないのだ。」(1937年5月15日)
【女学校時代のハンナ】
16歳の9月、ハンナの生き方を大きく変えた事件が起こった。当時高等女学校に在学中のハンナは、将来作家になりたいという希望を抱いて、文学クラブに情熱を傾けていた。新学期と共に文学クラブでは新役員選出が始まり、候補者の一人だっだハンナは、みんなの推薦を受け新役員に選ばれた。しかし学生自治会は、ハンナがユダヤ人であるという理由からハンナを拒否し、再選挙を要求してきたのだ。
当時ヨーロッパ社会では、日増しにユダヤ人への差別と迫害が厳しくなっていた。上流社会で名のある知人や、多くの友だちに囲まれて過ごしたハンナの生活の中には、ユダヤ人排撃はまだ現実感を帯びていなかった。しかし、夏期休暇で出かけたドンボバールで徹底したユダヤ人差別を見て、未来に対し暗い予感を抱いたハンナにこの事件は衝撃と深い傷を与えた。
だがこの出末事こそ、ハンナの心の奥深く潜んでいたユダヤ人魂を呼ぴ起こし、強烈なユダヤ人意識に目覚めさせるものとなった。以前は批判していたシオニズム運動に全身全霊をぶつけていった。
【シオニズム運動】
「シオニストという言葉は、非常に多くの意味がこめられている。わたしにとっては、わたしがユダヤ人であるということ、またユダヤ人であることを誇りに思っていることを、強く自覚させてくれる言葉だ。わたしの主な目標は、パレスチナに行きパレスチナのために働くことだ。……人間には、何か信じるもの、全身を傾けて熱中できるものが必要なのだ。また、人生は意味のあるものだと感じることや、自分がこの世界に必要とされていると感じることが大切だ。わたしにとっては、シオニズムがそれを全部満たしてくれる。」(1937年10月27日)
「いったんユダヤ人だと自覚した者ならだれでも、もはや目をつぶってしまうことはできない。……わたしは自分自身のため、自分の利益のためにだけ働きたいのではなく、全ユダヤ人の目的である共通の幸福のために働きたいのだ。……この夢を実現させるために、不屈の精神と頑強さと能力とを持てるようになりたいと願っている。」(1938年11月12日)
寝ても覚めてもパレスチナのことで頭がいっぱいのハンナには、もう今までの生き方に我慢できず、友だちや学校さえもつまらなくなり、イスラエルのナハラル女子農業学校に入学願書を送り、全力をあげてへブル語の勉強に没頭し、キブツで働くための体力づくりに余念がなかった。
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵入し、第2次世界大戦が勃発したヨーロッパを後に、最愛の母に別れを告げ18歳のハンナは単身パレスチナに向かった。
「わたしは生涯の大望、―使命とさえ言える―に導かれて、この土地までやって来たのだ。使命を果たしているという実感がほしいから、ここまで来たのだ。無為な生活を送るために来たのではない。ここでの生活は、その一瞬一瞬が使命を遂行していることに等しい。」(1939年9月23日 ナハラル農業学校にて)
『収穫』の詩(1940年 ナハラルにて 19歳)
わたしらは黒土にまみれ
黄金の穂をたばねる
最後の穂を刈り取った今
顔は汗で輝いている
この新しい光と声は
耳もとで響く歌声は
この闘志と新たなる信頼は
どこから生まれてくるのか?
あなた――豊かなエメク谷から
あなた――わが祖国から
                                   
ナハラル女子農業学校で二年間学び働くかたわら、祖国の地をくまなく歩きまわり、また各地のキブツを訪れては、祖国への愛を育て、祖国のために生きる道を模索し続けた。同じ思想、同じ祖国への愛と使命をもつ、多くの青年の中には、ハンナの生き生きとした人格、豊かな才能、何ものにも屈しない強い意志に惹かれて、愛を告げる青年たちもいた。
しかし、戦争が苛烈をきわめていくヨー口ッパの状況、次々とゲットーが破壊され、強制収容所に送りこまれるユダヤ人たち、そして再び、パレスチナにも戦いの火があがり始めた現実を目のあたりにしたハンナには、祖国のため、ユダヤ民族のために自分自身を燃焼させる道を探す以外に目をむけることはできなかった。
「わたしは使命を与えられた密使だという気がする時がある。(だれでも人生において使命をおびているものだ)わたしの使命が何であるかは、まだはっきりとはわからないが、まるで他人に恩義でもあるかのように、他人に対して責任があると感じる。時にはそんな考えは愚の骨頂のような気がして、どうしてわたしがやらなければならないのか、なぜ、わたしでなければならないのかと思う。」(1941年4月12日)
「ああ神様、わたしの胸に火を燃えたたせてくださるなら、その火をイスラエルというわが家のために使わせてください。そして、すべてを見通す目と、すべてを聞きとる耳とをお与えくださいますと同時に、わが身をむち打ち、いとおしみ、自己の精神を高揚するための強さをもお与えください。この言葉が空しいものではなく、わたしの人生の信条となりますように。わたしはどこに向かっているのか?世界で最上のものに、わたしの内部で火花を散らせているものの方向に」(1941年9月21日)
パレスチナに必要なのは、知識人でなく、国を創りあげる労働者と信じ、自分自身その一人になるためにイスラエルに渡り、農業学校に入ったハンナだったが、卒業後、さまざまなキブツで働きながら定住するキブツを探すがこれというキブツを見つけることができなかった。
その本当の理由は彼女の半生をそこに捧げるほどの強い確信を、キブツ生活に持つことができなかったからだった。
【特務隊の兵士】
ハンナは胸の奥で火がくすぶっている様な日々を送りつつも、祖国と同胞のために働く道を模索し続けた。暗中模索に疲れ、打ちのめされたような一週間が続いた後、突然、「ハンガリーに行こう!迫害下にある同胞や母を救うために、青年移民組織に加人しよう。」と、どこから湧いてきたのか、何がそう思わせたのか、この唐突とも思える考えが浮かんできた。
1943年1月、パレスチナ人自身の手によるユダヤ人同胞救出の極秘作戦が計画された。それはバルカン諸国やハンガリーに残っているユダヤ人約125万人をナチスの大虐殺から救出するため、パラシュート降下して各国に潜入しユダヤ人と接触するという特務だった。
ハンナは、パレスチナ移住を決意したときと同じように、このときも運命の手をはっきりと感じ、すぐさま特務隊に応募した。そしてハンナは、特務隊のただ一人の女性として採用された。ハンガリーでの生活で培われた精神に加え、数か国語を話す語学力と冷静な判断力に、強い意志を備えた人格が適任者として認められたのだ。
ハンナの日記は、呼び出しを受け特務隊の兵士として飛び立つ、1944年1月11日で終わっている。ハンナは今日まで歩いてきた22年間の年月を振り返り、今までやってきたことのすべてが、これからの使命達成のための準備と訓練だったことに思いを馳せ、使命感に燃え、苦難のただ中にある同胞のもとに飛び立っていった。
『花を摘んで』の詩(1944年 22歳)
野山の花を摘み
かぐわしい春風を吸い
暖かい日ざしを浴びた
愛するわが祖国で
そのわたしたちは今旅立つ
逆境の同胞のもとに
凍てつく冬に向かって
夜の霜に向かって
わたしたちの心が春の息吹きを伝え
わたしたちの唇が光の歌を聞かせることだろう
                           
ハンナの上官としてハンナと同じ任務をおびて、ユーゴスラビアに潜入したルーベン・ダフネがいる。ハンナは、このダフネにあの有名な『マッチのように』の詩を託した。特務隊員になってからのハンナの姿は、彼の手記に記されている。
ダフネがハンナに初めて会ったのは、使命遂行の計画会議にパラシユーターとして特務員達が集まったときだった。女性である八ンナが特務員の一人だと知ったときの驚き、それはダフネばかりでなく、英国将校やパラシユート収納庫の作業員までも驚愕のあまり言葉もでない様子だった。同胞の救いに命をかけたハンナの内から、神聖な生気が火のように燃えており、それは彼女に接したすべての人々に、大きな感銘を与え、希望を与えた。
1944年3月13日、ついに使命遂行の時がきてハンナ達一行はユーゴスラビアへ向かって飛び立った。特務員が到着する前からハンナのことは人々に知れ渡っており、ハンナはすでに神話的人物になっていた。ハンナにはみんなの尊敬や好奇心をかきたてる、何か神秘的な独持なものがあった。
パラシュート降下してから数日後に、ハンガリーがドイツに占領されたというニュースが伝わった。そのニュースにハンナは身をよじり、泣きながら叫びました。「ハンガリーのユダヤ人達はどうなるのでしょう。あの人達はドイツ軍に捕まっているというのに、わたし達はここにこうして座っているなんて!」そのとき以来、ハンナはものに憑かれたように国境を越える道を探し続け、ついに国境近くの村に入った。
1944年6月9日、ただ一人で国境を越える決心をした。それは危険で、ダフネは非常に不安だったが、もうハンナを思いとどまらせることはできなかった。そしてタ7時過ぎ、ハンナはパルチザンの主領と共に村を出ていった。道の曲がり角でハンナは振り返り、ダフネたちに手を振りやがて見えなくなった。ダフネは、これがハンナと最後の別れになるとは夢にも思わず、ハンナの成功を祈りながらいつまでもその場に立ちつくしていた。
【燃えさかる炎】
そのころハンナの母力テリーナは、1944年1月のハンナからの電報で、ジョルジュもパレスチナに行ったことを知り、ナチ一色に塗りかえられている大変危険なハンガリーを出て、パレスチナに行く用意を始めていた。
ところが6月17日の朝、突然国家警察の刑事から呼び出しをうけ、軍指令部に着いた力テリーナはそこで、パレスチナにいるはずの娘ハンナと再会したのだ。
5年前別れたときの面影はどこにもなく、恐ろしい拷問によって醜くはれあがった顔は苦痛のためにゆがみ、美しいウエーブのあった髪がクシャクシャになって顔の半分に垂れ下がっていた。「お母さん、許して!」と、ハンナは泣きながら母の胸に飛び込んでいった。歯が無残にも折れたハンナの口からは血が流れていた。
ドイツ軍は今までよりもっと効き目がある拷問を始めた。ハンナが暗号をもらさず秘密を喋らないなら、ハンナの目の前で母親を殺すと脅したのだ。しかし、どんな脅しにもハンナは屈しなかった。
11月7日、特務隊の一人であったヨエル・バルジィがハンナと同じ監獄内で、他の仲間と一緒に、すこしでも暖をとろうと体を寄せあって座っていたとき、突然、銃声がした。ヨエルたちは驚いて顔を見合わせ、「だれかが処刑されたのか。そんな馬鹿な!奴らは処刑する時、いつも念人りに儀式を行い死刑宣告文を声高に読みあげ、祈りの声とラッパの合図でもって陰惨な死刑を行うんだ。きっと看守が銃をまちがって射ったんだろう。」そんなことを言い合っていた。
しかしその日の午後、傷の手当てと称して、情報集めに監獄内の病院に出かけていった仲間が、青ざめ身を震わせて帰ってきた。「奴らは、ハンナを処刑したんだ。あの銃声がそうだったんだ!」ヨエルたちは声もなく座り込み、ぼう然として、身動きもせず冷たい石の床に座り込んでいた。
 
イスラエルエルサレムの丘にあるハンナの墓
その日から17日後にヨエル達は釈放されたが、その17日間、誰もが沈黙していた。沈黙することで、ハンナの死を心に深く刻みつけるかのように。なぜハンナだけが殺されたのか、今尚、不明のままである。
それから4年後の、1948年5月14日、テルアビブ・ミュージアムにおいて、タビデ・ベングリオン首相はイスラエル国の独立を宣言した。その陰には、第2次世界大戦における600万のユダヤ人の死と、独立を勝ち取るための苛烈を極めたエルサレム攻防戦で命を捧げた多くの若者たちの死があった。若者たちは幾度も倒れたが、決して退くことなく平和を勝ち取るため友の死も乗り越えて進んだ。ハンナは平和のために全てを捧げ、その短い生涯を終えた。
ハンナは、今も尚、イスラエルの英雄である。ハンナは処刑される直前、仲間に次の言葉を残した。そこには、ハンナの全てが込められている。
『思いとどまらずに進め。最後まで、自由の日がくるまで。我々同胞の勝利の日がくるまで、戦い続けよ。』(1944年11月7日 朝9時ごろ)
杜父魚文庫

コメント

  1. 柴わんわん より:

    古澤様にご紹介いただいた「ハンナの日記」絶版のため未だ入手できてませんが、私には、この本に挿みたい新聞の切抜きがあります。
    その切抜きは長く「アンネの日記」に挿まれていました。
    ユダヤ人という理由だけで虐殺されることも、それを避けるための隠れ家にあって希望を失わないアンネの強さも、子供の頃の私には信じ難たく「アンネの日記は」繰り返し読んだ本でした。
    今その切抜きはアンネの日記と並んでいる「幸せな子」という本に挿まれてます。
    強制収容所で父弟妹を殺され、母とはぐれ、アウシュビッツをたった一人で生き延びた少年の自伝です。著者のトーマス・バーゲンソール氏は後にアメリカで国際法を学び現在国際司法裁判所判事を務められています。「力」によって父弟妹を殺されたにも拘わらず、「法」によって世界に平和を構築したいという信念に、人間の叡智を信じたいという痛切な願いを感じ畏敬の念を抱きました。
    そして今民族の誇りとイスラエル建国のため命をかけたハンナを知りました。「勝利の日まで戦い続けよ」と言い残したハンナに切抜きを捧げるとどのような表情が浮かぶか分かりません。
    しかし、この三冊に切抜きを捧げたいです。
    そこには、パレスチナ暫定自治基本合意に調印した時のラビン首相の演説が記されてます。
    「天の下の全ての事には季節があり全ての業には時がある」という聖書の一節を引き
    「生まるるに時があり 死ぬるに時がある
     植えるに時があり 収穫するのに時がある
     泣くに時があり 笑うに時がある
     愛するに時があり 憎むに時がある
     戦うに時があり 和睦するのに時がある」
    「和睦の時が来た」事を信じた演説でしたが、後ラビン首相は同胞に暗殺され今なお和睦も平和も訪れていません。
    出エジプト以来かの地は民族と信仰の違いにより、それぞれが誇りをかけて戦い続けています。今まさに大きなウネリが起ころうとしている時、流されてきた幾多の血と涙に応える
    世界が構築されることを願ってやみません。

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