エジプトの大規模デモはムバラク大統領が軍を掌握しているかぎり民衆の不満は残っても一時的に沈静化するだろう。だが忘れてはならないのは「ルクソール事件」である。ニューヨークの世界貿易センターにハイジャックされた二機が自爆体当たりした凄惨な事件の四年前、エジプトのルクソール古代遺跡で起きたイスラム過激原理集団の外国人観光客五十八人の虐殺は、世俗主義のムバラク政権を根底から揺さぶった。
この悲惨な虐殺で日本人観光客も十人が殺害された。しかも犯人たちはイスラム教徒が犯してならない死体損壊(タムシール)の罪も犯した。
「ルクソール事件」はウィキペディアに概略が出ている。ここではウィキペディアが触れていない点を述べてみたい。事件の前に「イスラム集団」の古参幹部は獄中で武闘停止を呼びかけていたが、「ルクソール事件」の犯人たちは従わずに事件を起こしている。
ここから読み取れるのは、エジプトのハサン・アル・バンサーが結成した「ムスリム同胞団」は西欧文明に対するイスラム社会の徹底が主張であってテロ行為は否定していた。しかし当局によってバンサーが暗殺された以降、過激な戦闘集団が主導権を握って、サウジアラビア出身のビンラーデンに繋がっている事実がある。
バンサーは暗殺されたが、エジプトでは「ムスリム同胞団」が実質的に最大の政治勢力だといわれている。だから世俗主義のムバラク政権には反発しているが、過激なテロ行動に出る可能性は低いとみるべきであろう。「ルクソール事件」を起こした過激派の六人は射殺されている。
もしエジプトでイスラム過激原理主義者がテロ行動を起こすとしたら、外部からきたアルカイダを中心としたイスラム過激派であろう。少数ながらエジプト国内に潜伏している情報もある。
ここで今後の問題点を指摘すれば①穏健な「ムスリム同胞団」を治安部隊が弾圧すれば過激組織に転化する可能性②アルカイダを中心としたイスラム過激派を追及する公安警察は同盟国との治安情報の交換が必要になる③米国はムバラク政権に中東民主化要求の一環として「ムスリム同胞団」を弾圧しないように要求しムバラク政権は弾圧をしなかった経緯がある。それをあらためて強く要求せねばならない・・ということになる。
ムバラク政権内部では軍を中心として「ムスリム同胞団」に甘い対応をしてきたことが、今度の大規模デモを招いたという見方がある。これを説得し民主化要求に応えることが、エジプトの政情を安定させると米国やEU主要国が強い働きかけをして、第二のルクソール事件を招かぬことが必要である。
<<ルクソール事件(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)=事件現場となった遺跡ルクソール事件(―じけん)とは、エジプトの著名な観光地であるルクソールにおいて、1997年にイスラム原理主義過激派の「イスラム集団」が外国人観光客に対し行った無差別殺傷テロである。また別名をエジプト外国人観光客襲撃事件ともいう。
この事件により日本人10名を含む外国人観光客61名とエジプト人警察官2名の合わせて63名が死亡、85名が負傷した。なお犯人と思われる現場から逃亡した6名は射殺された。
事件の背景=イスラム教徒が多数を占めるエジプトにおいて、共和制成立以降は政教分離を実施していた。それを快く思わないイスラム原理主義勢力は、1981年に当時のエジプトの指導者であったサダト大統領をイスラエルと国交を結んだ裏切り者として暗殺し、さらに1992年ごろからはエジプト国内で政府の役人や外国人観光客らを標的にしたテロを続発させていた。
観光客を標的にしたのはエジプトの重要な歳入源である観光収入をテロによって激減させ、経済に打撃を与え、それに伴う政府への不満をあおって政府を転覆させ、イスラム原理主義政権を樹立させるという企みからであった。
事実、観光客は激減したため、エジプト政府は1995年から観光地の警備を強化し、武装原理主義者の大規模な取締りを行っていたが、1997年9月18日にはカイロのエジプト考古学博物館の前に止まっていた観光バスが襲撃され、ドイツ人観光客ら10名が死亡し、エジプト人15名が負傷するテロが起きた。
この事件の被疑者に対して10月30日に死刑が宣告されており、この裁判に報復する目的で、1993年の世界貿易センタービル爆破事件の首謀者、オマル・アブドゥル=ラフマーンが組織したイスラム原理主義テロ集団イスラム集団が計画したのが、ルクソールにおけるテロであった。
事件の概要=1997年11月17日午前9時(現地時間)ごろ、ルクソールの王家の谷近くにある、ハトシェプスト女王葬祭殿の前にて、外国人観光客ら200名に向けて待ち伏せていた少なくとも6名(もっと多かったという証言もある)のテロリストが、守衛を襲撃した後、無差別に火器を乱射し銃弾がなくなると短剣で襲ったという。この襲撃でスイス人、ドイツ人、日本人(観光客9名、添乗員1名)ら観光客61名が殺害された。
犯人らはタクシーを強奪し(犯人らは砂漠を徒歩で渡ってきて犯行に及んだため逃走手段がなかった)、さらには観光バスの運転手を脅迫して逃走しようとした。しかし、収入の糧である観光客を殺傷した犯人を逃がすまいと怒った住民の一部と警官隊に行く手を阻まれ、犯人らはバスから降りて銃撃戦をしながら逃走したが、最終的には全員が射殺された。
事件の影響=テロのために、エジプトの外国からの観光客減少に拍車がかかってしまった。相次ぐテロに対する責任を負わせるため、エジプトのムバラク大統領は治安担当の内務大臣を事実上更迭した。また当局は更なる掃討作戦を実行したため、エジプトでは大規模なテロ事件の発生は、この事件以降沈静化したとみられる。しかし、現在はアルカイダを中心としたイスラム過激派がエジプト国内で潜在している。>>
ムスリム同胞団=1928年、イスマイリアにおいて「イスラームのために奉仕するムスリムの同胞たち」として、ハサン・アル=バンナー(Hassan al-Banna)によって結成された。イスラーム主義組織としては20世紀最古にして最大の影響力を有する。
1940年代に隆盛したが、ナーセル政権の下で弾圧された。創設者のバンナーは1949年に秘密警察に暗殺されたほか、多くの指導者が投獄・処刑された。特に、西洋化を否定した過激派の先鋒サイイド・クトゥブ(Sayyid Qutb)(1966年、ナーセル政権下で処刑)の思想(クトゥブ主義、Qutbism)は、その後のイスラム過激派の思想の原点となった。
この組織はイスラム主義組織の中では比較的「穏健派」だが、エジプトでは宗教政党は禁止されているので非合法化されている。そのため、同胞団の団員は選挙の際無所属という形で立候補している。
しかし、それでも歴代政権の下弾圧されてきた。一時はクトゥブ主義が広まりかけたが、同胞団はその排除に努める。その結果、サーダート大統領を暗殺したジハード団、ルクソール事件を起こしたイスラム集団などの少数過激派が誕生した。
しかし2005年11月-12月の選挙の際アメリカ合衆国の中東民主化要求でホスニー・ムバーラク政権は弾圧をしなかった。その結果ムスリム同胞団系勢力は、民選の444議席(全454議席。残りの10議席は大統領任命)中88議席を獲得し、大躍進した。そのため与党国民民主党は議席が過半数を超えたものの、大きく減らしてしまった。
杜父魚文庫
7138 「ルクソール事件」と大規模なエジプト・デモ 古沢襄
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