冷戦崩壊後の米国の中東政策は多次元方程式から成り立ってきた。ひとつはエジプトとイスラエルの平和条約を基礎にして、中東に和解と平和を広げる政策である。
この背景にはイラン・イスラム革命で、これまでの「欧米自由主義陣営」と「ソ連・東欧共産主義陣営」という二極対立に「原理主義勢力を先兵とするイスラム陣営」が加わって、旧来の二次方程式では解けない世界認識が必要になったことがある。サミュエル・ハンチントン米ハーバード大学教授が警告した「文明の衝突」論は、この認識から生まれた。
しかし米ブッシュ政権は親子二代にわたって超大国の軍事力でイスラム世界の台頭を抑える行動にでた。米国だけではない。ソ連も中国も国内のイスラム台頭を軍事力によって抑える行動に出ている。
エジプトで発生した反ムバラク運動は、素朴な反政府運動からイラン・イスラム革命に回帰する様相を示している。その意味でエジプト最大のイスラム原理主義勢力、ムスリム同胞団の動向が注目の的になった。カイロから時事通信がムスリム同胞団のナンバー・ツウといわれているカイロ大学教授のラシャド・バイユーミ氏とインタビューした内容を伝えてきている。
ここでラシャド・バイユーミ氏はイスラエルとの平和条約を「平和的な条約ではなく、エジプトにとって降伏条約だ」とムバラク大統領を批判、平和条約の破棄に踏み込んだ見解を述べた。米国の中東政策を根底から覆すだけでなく、イスラエルの武装強化を招く強硬発言といえる。私はエジプトの騒擾事件は新しい段階に入ったとみている。
米国は早期にムバラク大統領の辞任を求めて、騒擾を鎮める必要に迫られているが、果たして勢いを強めているムスリム同胞団を抑えることが可能だろうか。エジプトがイスラエルとの平和条約を破棄すれば、中東は動乱の渦に巻き込まれるのは避けられない。
<【カイロ時事】エジプト最大のイスラム原理主義勢力、ムスリム同胞団の最高幹部の一人でカイロ大学教授のラシャド・バイユーミ氏は2日までに、ムバラク大統領退陣後の政権で主導権を握ることに強い意欲を示し、エジプトが1979年にイスラエルと締結した平和条約を破棄するほか、米国の援助拒否、シャリア(イスラム法)導入など、政策の抜本的修正を目指す意向を表明した。
バイユーミ氏は同胞団内で最高指導者に次ぐ幹部3人の1人。時事通信のインタビューに対し、同胞団の一致した見解として明らかにした。
欧米諸国は親米ムバラク政権の退陣後のイスラム勢力台頭を懸念しており、バイユーミ氏の発言は欧米側を一層警戒させる材料になりそうだ。
同氏は「最高憲法裁判所長官と協議し、暫定政権を設け、民主選挙を容認する憲法改正などを経た後、大統領選や議会選に候補を立てる」と言明。改憲については、大統領再選回数の制限のほか、宗教政党容認、シャリアに基づく犯罪処罰規則の導入を求める考えを示した。
さらに、イスラエルとの平和条約を「平和的な条約ではなく、エジプトにとって降伏条約だ」と批判。「新政権ではパレスチナ問題の解決が最重要外交課題になる」と語った。
米政府の巨額の対エジプト援助に関しては「米国は中東諸国を破壊する敵だ。援助を受ければ米国の意向に従う必要がある」とし、新政権入りすれば援助を拒否する姿勢を明確にした。ムスリム同胞団を弾圧してきたムバラク大統領については、退陣後に「不正蓄財や政治犯弾圧、デモ参加者殺害などの犯罪行為での訴追を求める」と述べた。(時事)>
<シャイフ・アフマド・イスマイル・ハサン・ヤースィーン(1936年 – 2004年3月22日)は、パレスチナのイスラム主義運動家で、イスラム原理主義組織ハマースの創設者、指導者。名前は「ヤシン」、もしくは「ヤシーン」と表記されることが多い。
ガザ地区アシュケロン近郊の村アル・ジュラに生まれ、エジプトで青年期を送った。エジプトのイスラム主義組織ムスリム同胞団の活動に関わった後、ガザ地区に帰って教員となる。
1970年代にガザ地区でイスラム主義運動を始め、パレスチナのムスリム同胞団で社会互助活動に従事するが、反イスラエル行動から1984年から1985年まで逮捕された。
1987年、イスラエル軍の車両が起こした交通事故により、4人のパレスチナ人が死亡した事件が起こると、ムスリム同胞団の同志とともにパレスチナのムスリム同胞団の行動組織としてハマースを創設し、イスラエルの完全撤退を最終目標に掲げて事件をきっかけに始まったインティファーダにおいて重要な役割を果たした。
ヤースィーンはハマースの活動のため1989年に再逮捕され、イスラエル軍事法廷で終身刑を宣告され投獄されたが、獄中で生来障害のあった身体は全身麻痺の状態となり、車椅子で移動しなければならなくなった。またほぼ盲目となった。しかし獄中でも1993年からはヤセル・アラファトらが進めるイスラエルとの和平案に強く反対し、イスラエルの完全撤退を訴え続けた。
1997年にモサド工作員との捕虜交換による政治的取引で釈放された後はガザに戻り、再び激化しはじめたパレスチナ解放闘争の精神的指導者とみなされた。
イスラエルはヤースィーンの存在を危険視し、ハマースの幹部に対して進める個人の殺害を目的とした襲撃の対象とした。2004年3月22日、ヤースィーンはガザ市内の路上を車椅子で通行中にイスラエル軍ヘリコプターのミサイル攻撃を受け、殺害された。
殺害後の波紋=ヤースィーンの殺害をコフィ・アナン国連事務総長、パレスチナ自治政府首相らは、不法な暗殺と非難し、日本を含め多くの国がイスラエルを批判する声明を発表した。
ハマースは即日、報復のため全面戦争を宣言し、翌3月23日に強硬派として知られるランティーシーが後継指導者に就任した。
暗殺から2日後の3月24日、国際連合人権委員会が国連史上初となるイスラエル非難決議を採択した。3月25日、アラブ諸国が国際連合安全保障理事会に提出したイスラエル非難決議案の採決が行われたが、ハマースのイスラエル人に対する攻撃に対する言及がないことを理由に常任理事国のアメリカが拒否権を発動し、イギリス、ドイツ、ルーマニアは棄権した。
4月17日、ランティーシーがガザ市中心部でイスラエル軍ヘリコプターの攻撃により再び暗殺される。この攻撃で彼の他、車に同乗していた側近と運転手も死亡している。この件について、アナンは国際法違反であるとしてイスラエルを非難した。
4月18日、ハマスは新しい代表を選出したが、暗殺を避けるため氏名の公表は行っていない。(ウイキペデイア)
杜父魚文庫
7174 イスラエルとの平和条約破棄 ムスリム同胞団 古沢襄

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