藤原和彦さん・・・中東政治思想の研究者・ジャーナリストとして第一人者だと思っている。六十七歳の若さで亡くなったが、2001年に中公新書で出した「イスラム過激原理主義 なぜテロに走るのか」は10年後の今でも先見性に満ちている。
この人、岩手県の一関市生まれ。それで親しみをもったのかもしれない。東京外語のアラビア語学科を卒業して読売新聞に入社、カイロ支局長になった。早くからイスラム教政治運動に着目していたが、サダト大統領暗殺を「イスラム原理主義の犯行説」と打電したのに、本社では取り上げて貰えなかった。
読売だけではない。当時の日本ジャーナリズムは「欧米自由主義陣営」と「ソ連・東欧共産主義陣営」の対立図でしか、中東情勢をみていなかった。70年代末から90年代はじめにかけて二回、八年半にわたってカイロ特派員を務めた藤原氏だったから、「原理主義勢力を先兵とするイスラム陣営」の台頭という視点で中東情勢を斬ることができた。
最近のカイロ報道をみていると「原理主義勢力を先兵とするイスラム陣営」をむしろ過大にみる傾向があるのではないか。明日にも「ムスリム同胞団」がエジプトの権力を掌握するような欧米的な恐怖感が先行している。藤原氏は10年前に「ムスリム同胞団」の起源を解きおこしながら”イスラミスト”の呼称を与えている。穏健なイスラム主義者の意味である。
エジプトの総人口は約8300万、その二割強の約2000万がイスラミストで貧しい底辺の民衆である。それがムバラク大統領の強権政治に反抗してカイロなどで大規模デモ行動に出たのは、もう少し詳しく背景をみる必要がある。
1979年末にアフガニスタンに侵攻したソ連軍に対してアラブ諸国から駆けつけた義勇兵アラブ・アフガンズたちは、アフガニスタンのイスラム聖戦士ムジャヒデインと一緒に戦った。ウサマ・ビンラーデインもその一人。
アフガニスタン戦争でソ連軍は敗退、撤退したが、アラブ・アフガンズは残留組、他地域への転戦組と帰国組の三つに分かれたと藤原氏は分析している。この帰国組がエジプトとアルジェリアでムバラク氏のような世俗主義政党の打倒を目指す武装闘争の主力になっている。
外国人観光客の凄惨な大量殺人行為を働いた「ルクソール事件」の犯人の大部分はアラブ・アフガンズ。狙いは世俗主義のムバラク政権を打倒することにあった。外国人観光客が来なくなれば、観光収入に頼るエジプト経済が破綻する「窮乏革命論」が根底にある。
この過激派のことを穏健なイスラミストと区別して、”ジハーデイスト”と呼んでいる。「ルクソール事件」を引き起こしたジハーデイストは当局によって全員が射殺されたが、エジプト国内で新たなジハーデイストが活動している可能性がある。
ムバラク大統領は「ルクソール事件」以降、「ムスリム同胞団」を非合法化してジハーデイストを摘発、苛酷な弾圧を加えている。欧米諸国がエジプトの民主化を求める背景には、穏健なイスラミストまで敵に回すことに懸念を抱いているからである。
しかしエジプトの権力構造を支えているのは、アフリカやアラブ世界で最大の軍事力を擁している総兵力約45万エジプト軍の存在である。この正規軍のほかに35万の内務省所管の中央保安軍、2万の国境警備隊などがムバラク大統領に忠誠を誓っている。
ジハーデイストが武装蜂起する可能性はないとみるべきであろう。すでに九月に引退を表明したムバラク大統領は、憲法を改正し、穏健なイスラミストを加えた民主化に踏みだそうとしている。ムバラク大統領の即時辞任を求める「決別の金曜日」と銘打ったデモも大きな衝突など混乱はなく終わった・・・とカイロから読売の末続哲也特派員が伝えてきた。楽観はできないがエジプトを揺るがせた騒擾は、一応は終息に向かうと私はみている。
<【カイロ=末続哲也】エジプトの首都カイロで4日、ムバラク大統領の辞任を求める「決別の金曜日」と銘打って行われたデモは推定20万人規模に膨れ上がったが、大きな衝突など混乱はなく終わった。
シャフィク首相は同日、中東の衛星テレビ「アル・アラビーヤ」のインタビューに答え、大統領の早期辞任の可能性を否定した。これに対し、即時辞任を求める反体制派は今後も定期的な大規模デモを呼びかける方針だ。
首相は「ムバラク大統領は法的理由で(大統領職に)とどまる必要がある」と述べ、「ムバラク氏の存在は、国の安定のために重要だ」と強調した。
衛星テレビ「アル・ジャジーラ」によると、反体制派は4日、今後も毎週火、金曜日に大規模デモを行うとして参加呼びかけを始めた。シャフィク首相はテレビで、デモを平和的に続ける限りは強制排除や逮捕を行わない考えを表明。国営テレビは4日、夜間外出禁止の4時間短縮を発表した。(読売)>
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