この春、進退が注視されている組織のトップやリーダーが5人いる。まず、東京都の石原慎太郎知事、4月の知事選に4選出馬するのかどうか。
大阪府の橋下徹知事は辞任して大阪市長選に出馬するのではないか、とうわさされている。中央政界では、菅直人首相の退陣を求める動きが野党間で目立ち出した。<3月危機>だ。
民主党の小沢一郎元代表は、強制起訴を機に高まっている離党要求をどうかわすか。そして、5人目が日本相撲協会の放駒理事長、八百長騒動で早晩進退が問われる。
進退をしくじった人は数多くいて、辞める時のほうがむずかしいというのが通説だ。さっさと辞めれば、粘りがないと批判され、粘れば潔くないとそしられる。
5人のうち、いまのところ、石原知事の去就にもっとも関心が集まっているが、進退もさることながら、進退をめぐる独特のコメントが興味深い。出馬するのか、と問われ、
「さあ、ケセラセラだね。誰にどこで何を聞かれても、天皇陛下がお聞きになっても、私は答えられません」(1月23日の民放テレビで)と返事した。
答えない意思が不動であることを示すために、天皇陛下を引き合いに出す。少々驚いた。普通なら、「天地がひっくり返っても」などと言いそうなところだ。
自身の進退をめぐるやりとりに、天皇を持ち出すのは、多分、日本で石原一人だろう。だからといって、礼を失する、と非難するつもりはない。
むしろ、天皇利用によって、進退についての石原の深層心理がのぞいた気がする。石原は出る、と私は思う。なぜか。
石原は発言量の多い政治家だが、皇室論、天皇観を語ったものはほとんどない。わずかに、中曽根康弘元首相との対談集「永遠なれ、日本」(PHP研究所・01年刊)のなかで、少年時代のことに触れ、
「天皇が神だ、などと周りが真剣に語るのが信じられなかった。国技館に相撲を見に行った時、宮城の前を都電で通ったら、車内の人がみんなお辞儀をしている。私と弟(俳優・裕次郎)がポカンとして立っていたら、親父(おやじ)から頭をぶたれたのを覚えています。『なぜだ』と聞いたら、『あの中に天皇陛下がおられるのだから』というのです。
何かおかしいのではないかと思っていました。それが敗戦後、国民主権となり、これはけっこうだと思っています」と語っている。国民主権下の象徴天皇に異存はない。石原78歳、戦前と戦後の両方を知る昭和ひとケタ世代の平均的な天皇観とみていい。
さて、とっさに口を突いて出たのかもしれないが、あえて「天皇がお聞きになっても」と意表を突く仮定を設けたのは、アクの強いモノ言いが好きな石原らしいのだが、同時に、天皇が<もっとも上位の人>というニュアンスも伝わってくる。
だから、出馬という前向きの決意が固まっていた(あるいは固まりつつある)からこそ、割合気楽に<天皇>を持ち出すことができた。そうでなく、不出馬に傾いていたら、<天皇>は出しにくいのではないか。
天皇に屈折した感情をいくらか残している世代としては、天皇に尊崇の念を抱きながらも、扱い方に慎重である。出馬、不出馬を迷っている不確かな心理状態のもとで、<天皇>は持ち出せない、と私は思う。
それが指導的立場にある人の行儀作法だろう。かりに、今後、「熟慮の結果、出馬しません」と石原が答えるとしたら、やはり天皇には失礼になるのではないか。(敬称略)
杜父魚文庫
7223 石原の「天皇利用」がにおう 岩見隆夫

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