7550 天皇の国における未曾有の天変地異 西村眞悟

天皇皇后両陛下は、第一グループの自主停電時間に合わせて皇居、御所の電気を切っておられる、と伝えられた。まことに、心にしみるありがたさである。
 
私の郷里堺には、第十六代仁徳天皇の御陵がある。この御陵から北に約十キロの上本町台地に高津宮がある。仁徳天皇は、この今は高津宮がある高殿に登られて、民の竈から煙が立ち上っていないのを眺められた。
即ち、「煙未だ浮かばず。天皇愁う」そして、百姓の年貢を免除し、自分の着物が破れても新品に替えず、宮殿の屋根が破れて風雨が入っても修理させず、三年が経ったある日、また高津の高殿に登られて、民の竈を眺められた。すると、至る所に炊事の煙が上がっているのが見えた。
天皇は喜び、「自分は豊かになった、もう心配することはない」と言われた。「煙已に起こる。天皇喜ぶ」そして、何故、ぼろぼろの着物を着て屋根や塀が壊れた家に住んでいる貴方が、豊かになったというのか、という皇后の問いに応えて次のように言われた。
「君主があるのは、百姓のためなのである。百姓が貧しいということは、自分が貧しいということである。百姓が豊かであって、自分が貧しいということはないのである」「子富て、父貧しき此の理無し」(頼山陽「日本樂府」より)
この仁徳天皇仁政の伝統は、脈々と我が御皇室のなかに生き続け、今、天皇皇后両陛下の「自主停電」となって現れている。
東北地方の地震と津波で被災した方々は、電気なく暖房無き被災地で氷点下の夜を過ごされている。そして、天皇皇后両陛下も、その被災地の皆さんと苦楽を共にしようとされている。
私は、今上陛下の自主停電のことを知り、日露戦争中、冬に暖房をさせず、食事も兵士の食糧ですまされた明治天皇を思い起こした。明治天皇は、お体に悪いからと暖房をすすめる周囲の人に、兵が極寒の満州で戦っているではないか、と申されたという。
また、母は自分の父から聞いた明治天皇の質素な日常を、涙をにじませて私に語ったことがあった。明治天皇は、普段着をまことに長く着られよれよれだったという。
ひょっとすると、明治天皇は、頼山陽の「日本楽府」を読まれていたのではないか。そして、苦難に満ちた明治の貧しい国民を富ますために、自らよれよれの服を着ておられたのではないか。
「日本楽府」には、仁徳天皇の民の竈の故事に関して次にように歌われている。(天皇の)陋屋弊衣、赤子を富ます
また、仁徳天皇の「君主は百姓のためにある」という基本認識は、我が国の歴史を貫いており、江戸時代の米沢藩の改革者上杉鷹山の「伝国の辞」にも現れてくる。
「伝国の辞」は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に先立って、「人民は国家のためにあるのではなく、国家は人民のためにある」という原則を宣言したものである。
また、欧米諸国が如何に独立宣言や人権宣言を自分たちのオリジナルだとありがたがろうが、同時に彼らは奴隷制度を続け有色人種は「人間ではない」と平気で思っておれる自分勝手な低レベルであった。そして、その思いこみを痛撃して打ち砕いたのが二十世紀の日本だった。
従って、偽善でないほんとうの自由と民主主義の原則は、我が国の歴史と国体のなかに貫かれてきたのであって、奴隷制度の国から輸入されたものではないのだ。
以上の通り、仁徳天皇に思いを巡らせて今上陛下を思い拝するたびに、まことにありがたいと、目に涙が浮かぶのだった。
そして、本日の産経新聞朝刊を手に取り、第一面に映る写真と「自衛隊員、献身貫く」の見出しを見て胸にこみ上げるものがあった。
戦後のマスコミの報道姿勢を見ていただきたい。災害であれ事故であれ、自衛隊が如何に黙々と働いても、そのことは報道せず、自衛隊の落ち度ばかりを探して報道されてきた。
テレビの画面は、自衛隊員の姿をわざと外しボランティアの活動状況だけを流す。また、テレビカメラマンが自衛隊の救援へりに同乗し、へりから救助の状況を映した映像を放映していても、「自衛隊へヘリから」という説明は故意に為されなかった。
つまり、今までの我が国のマスコミは、ボランティアの活動と救援物資の分配状況は報道しても、それ以前に為されていた自衛隊員の命がけの姿に焦点を当てて報道してこなかった。
従って、このマスコミの風潮に合わせて菅という市民活動家の頭の中が動いているのが分かる。つまり、菅氏は、十三日、自衛隊十万人動員を言い出したが、それと同時に決めたことはボランティア担当補佐官の任命だった。この未曾有の災害に対する最悪の頭の構造ではないか。
この市民活動家は、マスコミは自衛隊ではなくボランティアに焦点を当てるだろう、だからボランティア重視の姿勢もアピールしておかねばならないと思ったのだろう。馬鹿なことだ。
しかし、最高指揮官が十万人の自衛隊を動員すると表明したならば、同時に彼がするべきことはボランティア担当補佐官を決定してその者を官邸に呼ぶことではなかった。
そもそも自衛隊十万の動員とは、おおよそ八個師団からなる「軍の編成」なのであるから、最高司令官が為すべきことは、昔の言葉で言う「戦闘序列」の発表とその序列に基づく最高司令官を官邸に呼んで訓辞を与えることであった。
とはいえ菅君、君の頭がここに至らないことはよく分かっている。反日的・反国家の市民運動家である君にとっては、日の丸は国旗ではなく君が代は国歌ではないのと同様に、自衛隊も違憲だろう。
しかしだ。国民にとって幸か不幸か、その君が自衛隊員を十万人被災地に送ると言ったことは確かである。しかも、彼らは君らによる予算削減で装備も不十分で携帯食料も2、3日分しか持たされずに現地に出ているのだ。
低レベルな頭はともかく、君に人間味のかけらでもあれば、現場の自衛隊員を代表する彼らの隊長に「不自由な思いをさせてすまない。行ってくれ、よろしく頼む」と一言くらい言うべきではないか。
自衛官達は、最高指揮官とマスコミから、ことさら疎外され、東京消防庁のように記者会見もすることもなく、黙々と一番危険な任務を遂行している。
その彼らの姿を、本日第一面で産経新聞が伝えたことに、私は敬意を表し心から感謝したい。
 
前にも書いたが、「士は己を知る者の為に死す」という。無名の若き自衛隊の勇士達よ、胸を張れ、 君たちのことを、天皇陛下と国民は知っているのだ!
次に、本日の産経朝刊に関して注目した記事を指摘しておきたい。それは、福島第一原子力発電所の事故を世界が如何に見ているかを紹介した記事である。
マスコミの大勢は、相変わらず「反原発運動」のことは報道し、日本でも千二百人が東京で「反原発デモ」をしたことは報道した。
従って、市民運動家頭の菅氏とその内閣は、この福島原発事故に対処するに、原子力発電を国策上如何に位置づけるのかに関し曖昧なままである。
つまり、「この想像できる範囲で最も厳しい試練に直面している」(英紙)ことは、日本が未来の安定した原子力発電の確保のために世界に大きな貢献をすることであると菅氏が認識しているのといないのとでは事態収拾に大きな差が出てくる。
思うに、市民運動家総理と内閣は、またもマスコミの大勢に合わせて、「反原発デモ」のほうに配慮して原子力発電の将来を如何にするかという課題には見て見ぬふりを決め込んでいるように思う。
このような菅内閣と我が国マスコミの風潮に対して、本日の産経朝刊の「オピニオン」蘭は、有効なパンチを与えている。
そこで紹介された英国ガーディアン紙の環境コラムニストのジョージ・モンビオ氏の、「何故、フクシマは私の不安を取り除き、原発を許容させたのか」という題の指摘は、我が意を得たりと手を打つ記事である。
彼は、原子力は想像できる最も厳しい試練に直面しているが人類や地球への影響は少ない、として、「原発を廃棄したら、・・・それに換わるものは化石燃料だ。石炭は原発の百倍の害をまき散らす。・・・フクシマは私を原発信者に改宗させた」と結んでいる。
福島第一原子力発電所において防御作業をしている東電職員、自衛隊員、消防隊員の皆さん、世界が見ている。世界の未来のエネルギーの為に、どうか未来に自信を持って御奮闘されたい。
なお、二十六日産経夕刊には、福島第一原発から四十五キロの距離にある相馬市の立谷秀清市長は、「相馬市を離れるつもりはない」と放射線への不安を払拭する為に域内に踏みとどまることを表明した旨報じられている。
また同紙に、放射線への不安故に、日本を脱出する外国人が相次ぐなか、英国人のリチャード・ハルバーシュタットさんが、避難便に乗らず、「この町の魅力は人につきる。友人達とサンマのぬたをもう一度食べたい」と石巻市に引き返したことも報じられている。
そこで、付け加えて申しておきたい。私の住む堺市の男性(七十歳)は、「風評に怯えてはいけない。福島の原発は安全であることを身を以て世界に示すために、七十歳の私が出来ることとは、福島第一原発の近くに住むことだ。それくらいのことしかできない。従って、私がそこに移住できるように取り計らってほしい」と私の事務所に陳情された。
そこで菅総理と官房長官に聞く、君らはぴかぴかの防災服を着て、ぺらぺらしゃべる量は多いが、世界に向けて、原発の将来を如何にするか、その為に日本人が如何に戦っているか、政治家として発信できないのか。
さて、昨日は香川県高松市国分寺町会館に、「たちあがれ日本」の平沼赳夫代表と八尾の三宅博さん、三田の三木けえさん、そして私が集まった。高松市議会選挙候補の「藤澤たけし」さんを応援する為である。
会館には、高松の憂国の人々が集まっておられた。そして、平沼代表は、獅子吼に近い演説をされた。
平素はまことに穏やかな平沼代表が獅子吼される様を見ていて、三月二十日の堺泉ヶ丘の集会で、評論家の青山繁晴さんが、「この緊急時に、我が国の内閣総理大臣を務めえる人物は、平沼赳夫さんをおいて他にない」と断言したことを思い起こした。
今、我が国は、甦りの時、その為にすさのお的な荒ぶる魂が求められる時がきている。それに呼応して、平沼代表の声が獅子吼に近くなってきているのだと思う。
 
感慨深い高松であった。高松からの帰路は、三宅さんとスバルアウトバックで鳴門大橋、明石大橋を乗り継いだ。淡路島の道路は照明灯が点灯されずに暗く、各所のサービスエリアでは、半旗が掲げられていた。日本の甦り前夜である。
杜父魚文庫

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