四月十八日の参院予算委員会をNHKテレビで終日観た。東日本大震災の集中審議である。発生から一カ月と一週間、一体何がどうなっているのか、もやもやしていたものがいくらかわかった。
ひと言で言うと、「この国危ないな」
という感想である。私は終始、二人の人物に目を注いでいた。菅直人首相と東京電力の清水正孝社長だ。発言内容もさることながら、むしろ細かな表情が気になった。いまこの国を激しく揺さぶっている大災害を一身に背負ってみせるという気概や緊迫感があるか。残念ながらお二人からはそれは伝わってこない。
予算委というテレビ中継の貴重な場を活用して、国民のみなさんに奮起と理解を求めるのではなく、早くこの追及の舞台が幕にならないかと内心願っているように、私には感じられた。
菅首相については、先週の当コラムで、お辞めになるしかない、と申し上げたばかりである。予算委では何人かの野党議員が菅さんに退陣を要求したが、私も応酬を聞きながら、さらにその感を深くした。
もう一人の清水社長はどんな人物か、まったく予備知識がない。震災四日後の三月十五日早朝、菅さんが東京・内幸町の東電本店に乗り込み、
「(東電が福島第一原発から)撤退した時には、東電は一〇〇%つぶれるぞ」と撤退の噂について一喝した相手が清水さんと報じられた。だが、予算委で菅さんは、
「東電に行く直前に、清水社長から『撤退という意味ではない』との説明を受けており、行ったのは政府と東電との福島原子力発電所事故対策統合本部の初会合に出席するためだった」
と説明した。一喝はなかったと言いたいらしいが、嘘っぽく聞こえた。言った、言わないが多い首相である。とかく、しどろもどろの菅さんと比べて、清水さんは割合悠然と構え、答弁もよどみがないようにみえた。
「十四、十五メートルという津波の大きさは想定できなかった。甘かったと言わざるをえない」
などと何度も陳謝し、頭を下げたが、しかし、どうも真実味がない。苦悶の姿がうかがえない。関東一円の電力を供給する大企業のボス、というスケールも感じられない。
予算委終了後、退室する菅さんが参考人席の清水さんの前を通った。清水さんは腰をかがめてお辞儀をし、上目遣いにやや卑屈な視線を菅さんに投げたが、菅さんは一顧だにせず通り過ぎた。その一瞬を捉えた写真が翌朝の新聞にいっせいに載った。展望のひらけない窮状を象徴するような二人だった。
◇時代の転換期にこそ 全体俯瞰の器量ほしい
古い話に切り替える。中部電力の初代社長、井上五郎さん(一八九九─一九八一年)が語り残したエピソードだ--。
井上さんは一九二三(大正十二)年、東大電気工学科を卒業して東邦電力(のちの中部電力)に入社した。その年九月一日、関東大震災が発生する。井上さんは九州に出張中だったが、一報を聞いて東京の本社に戻ろうとした。
しかし、列車は大宮駅でストップ、日比谷の本社まで歩いたが、日比谷はがれきの山。そのなかに、
〈東邦電力本社は目白の松永邸に移した〉と記した立て看板をみつけた。松永安左ヱ門副社長の邸だ。井上さんは目白に向かう。しかし、目白も壊滅、わずかに松永邸だけが廃虚のなかに残っていた。邸内に入り、息せき切って、
「松永さんは無事か」と尋ねると、家人が、
「大広間にいますよ」と言う。井上さんはその後約半世紀、松永さんのことを話す機会がなかった。しかし、死去の前、
「あの大広間のふすまを開けた瞬間のことを私は生涯忘れない。後世に伝えたかったのです。
その時、松永さんは大広間で大きな日本地図を広げ、生き残った若い社員を前に、『日本の復興は電力だ』
とぶっていた。のちの大電力構想(北海道から本州全域に至る電力網確立プラン)です。
『ご無事で』
と声をかけるのもはばかられる迫力でした。私の顔を見るなり、
『やあ、井上君、きたか。君も議論に加わりたまえ』と松永さんは言いました。あの非常事態、邸の周辺は遺体の山です。松永さんの肝の太さに、私は言葉を失いましたね」
と、毎日新聞経済部記者、渡辺良行さん(現帝京平成大学教授)に語ったという。私は先日、渡辺さんから聞くことができた。
〈電力の鬼〉と呼ばれた松永安左ヱ門さん(一八七五─一九七一年)のことはいまさら語るまでもない。徹底した電力民営論者で官僚嫌いだった。戦時体制下の電力国家管理に最後まで抵抗して敗れ、いったんは隠居生活に入っている。
戦後第一線に復帰し、四九年、電気事業再編成審議会会長に就任、いまの民間九電力体制の生みの親となった。すでに関東大震災のころ、松永さんは民間地区九社による発送配電一貫経営を提唱し、大震災の五年後の二八年、構想を正式に発表していた。先見性である。
さて、私が言いたいのは、政治にしろ企業にしろ、前に進める指導者たちのスケールの大小である。ことに時代の転換を求められる時こそ、全体を俯瞰して構想する器量がほしい。松永さんが関東大震災の廃虚のなか、日本地図を広げていたのは四十七歳、すでに俯瞰力を備えていた。
予算委論戦で、表情の乏しい、スケールを感じさせない清水さんを見つめながら、私は八十八年も前の松永さんと新入社員の井上さんの劇的な秘話をしきりに思った。〈平成の松永〉が現れないものか。
なお、井上さんは一九六七年、新設された動力炉・核燃料開発事業団の初代理事長に就任、原子力発電の草分け的存在だった。四十数年にして、原発悲劇である。何が欠けていたのか。
<今週のひと言> テレビを観るのが重荷になってきた。 (サンデー毎日)
杜父魚文庫
7768 電力の鬼・松永安左ヱ門の「秘話」 岩見隆夫

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